・共産主義という考え方に至って実践できる人があまり居ないから。
あなたの住んでいる街の人たちは、みんなボランティアで市民活動とかしてますかね?
してない人の方が多いですよね??
こどもに「ボランティアで働け!」って言って、みんな喜んで働きますかね?
共産主義の精神が、ボランティア精神に近い部分があるとするならば、そんな精神を持ち合わせる相対的人口はわずかです。
よって、共産主義が実現しないのは「落ちたリンゴがまた幹に戻るくらい不自然なこと」なのではないでしょうか?
実際、世の中で報酬を多く稼いでいる人は、あなたのいう《能力に応じて労働し、労働に応じて受け取る》段階以前で、《能力なくても労働し(居座って)、労働されて受け取る》と言った方がしっくりくるかもしれません。
『動物園で一番エサ代が掛かるのは誰って?動物じゃないよ、園長だよ!』(みたいな北野武の台詞)
ご参考に。
勘違いなさらないでいただきたいのですが、僕は、マルクスの理論がフィーズィブルであることを直接論証しようとしているわけではないのです。
この理論のフィーズィビリティに疑問を提示する様々な議論中のごくいくつかのケースにおいて、疑問の根拠として挙げられていることが、あまりにも出鱈目だと言っているだけです。
給料を平等にすべきなどと言っていないものに対して、「給料を平等にしたら長続きしないよ」といっても、その命題自体は正しくても、相手に対する批判や反論にはなっていません。
あなたの場合も同じです。共産主義の実現にはヴォランティア精神が必要だというのは、あなたの判断です。一つの思い込みであり、決めつけにすぎません。そうでないというなら、ヴォランティア精神がなぜ共産主義の実現に不可欠なのか、説明してください。
また、別の角度から、次の点も指摘しておきたいと思います。
共産主義の実現にとって、互恵性は必ずしも前提条件ではないと思います。むしろ、共産主義の実現ののちにこそ、互恵的な関係は、発展の基盤を保証されることになると考えます。
とはいえ、競争的社会の現状においても互恵的関係は、一定の発展を示しています。互恵的行動は、自己利益の追求とは矛盾しません。互恵的行動を自己犠牲的行動と同一視しているとしたら、それこそがひどい思い込みです。
人々は中長期的な自己利益のために互恵的行動をとる[戦略的互恵]のであり、それがなければ人間社会はとっくの昔に崩壊しています。
いわゆる「ボランティア」をしていない人間は、互恵的に行動できないというあなたの判断は、まったく無根拠な妄想にすぎません。
例えば以下のようにしたときに、
公助(3) ・・・共産
共助(2)・・・ボランティア
互助(1)・・・互恵的
自助(0)・・・自己責任型、弱肉強食
3は2を包括できるが、2は3を包括できない。
ましてや4は概ね全てを包括できるが、0は全く包括できない。
そういう構造があります、だからボランティア人は互恵的人でもあるし、自己責任型の部分もある。
日本の福祉医療における、公的保険制度は破綻寸前。
共助の仕組みできていたが、互助に移るしかないそうです。
ちなみにアメリカは自助社会、弱肉強食です。
ご参考に。
ご自身の整理において「公助=共産」となさるのは、ご自由ですし、議論の際にその定義に従うことにも吝かではありませんが、「共助」と「互助」の違いがよくわかりません。
また、アメリカが「自助社会、弱肉強食」というのは、アメリカ社会の一面だけしか見ていない議論だと思います。
ドネーションと公益財団、NPOやESOPが著しく発達した社会です。確かに、公助の要素はあまりないですね。DIY社会ですから。しかし、このYは、Yourselfだけではなく、Yourselvesも相当にあるのではないでしょうか。仰るところの互助および共助かな。
そして、僕の理解では、マルクス派が目指すべき社会は、互助中心の社会、すなわち公助も共助も不要な社会です。
公助に頼っていたら、国家を死滅させられませんから、公助はマルクス派がとるべき政策ではありません。そしてもしも共助が自己犠牲を含むのであれば、共助中心の社会は、ご指摘通り実現困難です。
The Impossibles: (Never) Say Goodbye