「消費社会」とはどういう社会か(その1) | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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1) 消費社会の成立


そもそも「消費社会」とはどのような社会なのだろうか?

消費過程自体は、人間の生活になくてはならない契機であり、だから、人類史上のどんな社会も消費過程を持っていたはずである。それにもかかわらず特定の歴史段階にある社会が殊更に「消費社会」と規定されている。結論的に言えば、そのさいに消費社会の目印とされているものは、生産と消費の分離、「消費者」という立場に達人が多数を占めるようになること、そして消費への人々の関心の集中である。

 本来、家族共同体とか、個人といった一個同一の主体が行う物質代謝の契機として統一されていた生産と消費は、近代社会においては時間的・空間的に分離され、さらにそれぞれの過程は別々の主体に担われるようになる。われわれの社会では、どの生産物を取ってみても、それを生産する者と消費する者はたいてい一致しないのである。

この社会の生産物の圧倒的多数にとって、社会の成員の圧倒的多数が、その生産物を生産せずただ消費するだけの者として立ち現れる。近代社会はそのような社会である。しかし、これだけでは「消費社会」と呼ぶには不十分である。電気洗濯機という生産物にとっては消費者でしかない人物も、ビーチサンダルにとっては生産者かもしれない。ところが、この社会の大多数の成員の一人一人を見るかぎり、彼らの生産者としての顔はなぜか見えにくいのである

 それは、この社会が、個人が単独で生産者となることが極めて難しい社会だからである。今日、生産のほとんどが企業組織によって担われている。企業組織の構成員は、この組織体の内部において、現実に生産過程の個々の局面を担う生産行為の遂行者であることに間違いはない。

しかし、社会全体に対しては、企業それ自体か、あるいはこの企業を統率し代表する特別な個人だけが生産者として姿を現すのである [1]。そして個人としての個人のプライベートな生活過程は、市場において購入したものを消費する過程、個人的消費過程として現れるだけである。

各人の自己実現や様々な欲求の充足が商品の購入と消費という方法で行われることが圧倒的に多くなる社会、消費社会がここに成立する。


[1] 「「市民civilian」は.現実の活動場面においては.法人()の一員と自然人(私人) とに分裂している。私人としての個人は.一方では私的個人の資格において無媒介的に国家の「公民」として権利づけられている。他方では諸個人は、「民間法人企業」という組織の一員としては、公的存在にまで昇華しているいるにもかかわらず、「法人企業」の一員としては物的生産要素の一つに過ぎぬがゆえに、人格存在として承認されない。換言すれば、企業法人それ自体が「企業市民」として「市民社会」の一員であることを承認されるケースが出ているが、「企業の従業員を職場内で市民として遇する」ことは拒絶するのである。」(山本孝則「社会認識の座標軸としての市民社会と資本主義――〈環境の世紀〉・「市民」再発見の時代のために――」『経済論集』第77号、36頁。)







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