「消費社会」とはどういう社会か(その2) | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自己確証としての消費


個人の生活の中で消費の持つ意味合いは大きくなるが、他方で、われわれの社会では、以前にも増して職業が自己確証(周りの人に認めてもらっていると実感できること)の手段として重要となっている。このことについてワクテルは次のように述べる。「かつて人口の大半が農民だったころ、仕事で人を区別することは不可能であった。だが、今日では多種多様な職業があり、一つの職業のなかにも無数のレベルがあって、仕事を聞くだけで相手の人物をかなり具体的かつ正確に想像することができる。加えて、われわれはかつてないほど頻繁に動き回り、その活動の場は以前ほど自分が生まれた家庭によっては拘束されなくなってきている。仕事が、われわれの特徴や地位のすぐれた指標であるだけでなく、アイデンティティ形成の契機ともなる理由がそこにある。[中略―引用者]こうして、個人にとって仕事の意義はますます大きい。

仕事を失うことは、単に収入を失うだけにとどまらない。収入の減少に加えて、社会体制における自分の位置が失われるという思いが大きな不安を呼ぶのである。いまの仕事が存続することこそ、多くの人々にとってすべてに優先する社会的大目標となるのは当然といえよう。」「アイデンティティや社会参加といった、仕事のもつ非経済的側面にも目を注ぐ必要があるだろう。多くの人々にとって、単に仕事がある、あるいは以前と同じサラリーが得られるというだけでは十分ではない。共同体における自分の役割、人間関係、環境、期待を維持できるような仕事につくことこそ、主観的には何より望ましいのである。[1]


ところが、賃労働に基づく生活様式の下で労働力は他人に売り渡されてしまうから、労働力を消費して行う生産活動(労働)は、労働者自身の活動でありながら、彼自身の自由な生活からは、切り離されたもののようになってしまっているのである。その結果、職業を通じての自己実現、自己確証の余地は次第に狭まってくる。

この点につき、中山太郎氏は、次のように述べる。

「仕事が単純化し・全体システムの一コマを果たすにすぎなくなると、仕事において自己を生かしうる分野はなくなる。そこには自分の創意、工夫・努力を発揮する余地はない。たんに定められた役割をくり返すにすぎない。『全体とのかかわりあいにおいて自己の一コマの仕事を位置づけよ』といわれても観念的に理解しえたとしても、全体が大きいだけに実感としてそのことが行なわれがたい。

/自己の仕事に対する意欲の喪失は、技術進歩の結果であり、当然の帰結でもあった。都会の大企業に就職した者が田舎へUターンする現象が最近強まりつつある。このことは、近代工業生産の現場における仕事のあり方に対する一つの警鐘であるといえよう。 [2]


人々は職業を通じて社会的承認を受け取り自己確証を行おうとするのに、そこには自己喪失の危険が待っているのである。 企業側が、労働者に職場での生きがい、働きがい持たせたいと工夫を凝らしていることもあって、職業に自己確証の場を求める傾向は完全に衰退してしまったわけではないが、期待をもって仕事に打ち込めば打ち込むを程、期待が裏切られたときの喪失感は大きい。そこで勢い代償的に消費や余暇にのめりこむ傾向も生まれてくるのである。中山氏は、先の引用部分に続けて次のように述べている。――「このような仕事の実態から、仕事への意欲を失い、余暇を選好する傾向が生まれてくる。これは仕事からの逃避としての余暇である。ここに問題点の一つがある。」――


こうしたわけで、消費行為を通じて自己実現を図ろうという傾向も顕著なものとなっている。たとえば,「文章完成法,絵画解釈,言葉の連想など様々な投影技法を使って行われた自動車の購買研究では,車の購買動機として,①社会への参加,②生活領域の拡大,③力の感覚を得ること,④輸送すること,⑤技能と熟達を誇らしく感じること, ⑥特技の主張, ⑦ステイタスの誇示,⑧攻撃性のはけ口などがあることが発見された。これは、既に今日では常識ともなっているが、車が単なる物理的な存在を越えて、自己の表現手段としての意味を持つことが強調されたのである。[3]」との指摘があるが、これは車だけに限ったことではない。


「考えてみれば、ささやかなインテリア小物を、ブラウスやワンピース一枚の値段で手に入れる女性たちは、そうやってモノでかためた生活の中に、自己実現を見出していることだろう。ティーカップ一つ選ぶのから始まって、日本家屋にはまるでそぐわないアンティークのサイドテーブルを一つだけ手に入れるアンバランスや、果ては、バスルームまでモノトーンで統一されたハイテックな邸宅に至るまで、程度はちがっても、住居という自分のナワバリを自分のカラーで染めあげる「自己実現」 の追求は、どれにも共通しているようである。

 

[中略―引用者] しかし、モノでかためた生活は、なんとウソでかためた生活に似ていることだろう。皮膚の表面から始まって、自分のナワバリをひとつひとつ他人とちがう個性的なモノでかためて、拡張していく。モノはその時、たんなるモノではなくなって、自己表現の手段、自分を表わす記号となっている。そうやって『私らしさ』の擬似環境をでっち上げていく以外に、私たちは自分であることを確かめるよりどころがなくなっているようだ。 [4]」とさえ言われているのである。





[1] ポール・L・ワクテル『「豊かさ」の貧困―消費社会を超えて―』TBSブリタニカ、1985年、282~283ページ。
[2] 中山太郎『人間と社会と労働』日本生産性本部、1972年、324頁。
[3]木綿良行ほか『現代マーケティング論』有斐閣、1989年、134ページ。
[4]上野千鶴子『〈私〉探しゲーム』筑摩書房、1987年、85~86ページ。