「根本的に議会制民主主義を否定したのがマルクス」 | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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マルクスは議会制民主主義を、自らの主張における必要条件としたのでしょうか。あるいは、むしろ、それを否定してプロレタリアート独裁こそ、必要条件としたのでしょうか。いずれの主張が正しいのかわかりません。
まず「マルクス 議会制民主主義」でググったら、日共の寝言が検索結果最上位。

●マルクスがめざしたのは議会制民主主義
http://yaplog.jp/marxseminar/archive/35
『マルクスは生きている』 不破哲三社研所長にきく<下>
しんぶん赤旗・日曜版 2009/6/21号より

マルクスを「暴力革命の信奉者」扱いする議論が、いまでもあちこちに顔を出しますからね。ところが本当のマルクスは、「議会の多数を得ての革命」路線の先駆的な提唱者だったのですよ。

(略)当時のヨーロッパでは当たり前の話でした。権限をもった議会はほとんどないし、その議会を選ぶ選挙権は金持ちだけのもの。だから、革命といえば街頭での決起が当たり前だったのですが、マルクスはその時代に早くも、普通選挙権と人民主権の政治体制を主張し、その体制を実現したら「議会の多数を得ての革命」に道が開ける、という新しい革命論をうちだしたのですから。

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ところが、検索結果第三位が、これまた怪しい池田信夫wの記事

●代表性の神話
http://agora-web.jp/archives/1444249.html
もっと根本的に議会制民主主義を否定したのがマルクスである。(略)マルクスは代表性=現前性(representation) の神話を否定 し、民意なるものはメディアの作り出す虚像だと述べているのである。(略)一貫した意思決定は独裁的でしかありえないのだから、プロレタリアート の独裁というスローガンは論理的に正しいのだ。

●プロレタリアートの独裁
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51442702.html
マルクス(略)が人間の行動を規定する要因として指摘したのは(略)夢魔である。

(略)。社会主義が崩壊しても「あれはスターリンが悪いので、『真のマルクス』は正しい」などと際限なく補助仮説を付け加えて「説明」する。

こうした夢魔を淘汰するのは論争ではなく、戦争である。(略)民主主義が「主権者」としての国民の意志を代表するというのはブルジョア社会の神話 であり、イデオロギーは武力闘争によってしか転覆できない――というのがマルクスの「プロレタリアート独裁」の理論である。

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以上、両者を比較すると、後者の意見がなんとなく正しいと思ってしまいます。個人的にはそれで構わないのですが、もともと私がマルクスの原著を読んでいないので、断定する根拠がありません。どなたか詳しい方に、ご回答をいただきたく、よろしくお願いします。
 
確かに、マルクスにとって、民主主義は、支配階級が自己の思想や利害関心を被支配階級に受容させるための手続きの一つでしかありません。この手続きには民主主義以外にも、暴力による強制がありうるとしていたことも事実です。

しかし、彼自身が最善の方法をと考えていたものは、暴力による強制ではありません。

「最善の検閲は、言論の自由である」…これは検閲条例を批判したマルクスの言葉ですが、これを見れば、彼が、熟議こそが誤った観念の横行を抑制する最善の方法だと考えていたことがわかります。

プロレタリア独裁の主張も、暴力による考えの押し付けとみるのは、ためにする解釈でしかありません。彼が、自分たちの「プロ独」というアイディアが、現実的なものになったケースと捉えた彼の「過渡期国家論」を「プロ独」概念として整備する素材としたのは、よく知られているようにパリ・コミューンの政治体制ですが、その肝は、拘束委任式の代理人派遣制度にあります。

ブルジョア民主主義が、選挙で選ばれた人間に任期中は自己裁量で決定権を行使する自由を与える白紙委任制度であるのに対し、パリ・コミューンは、代理人に対して、常に選出母体からの合意を取りつつすべての案件に対処することを義務付け、これが守れない場合は、選出側が解任できるという制度を実施しようとしたのです。

これは、議員や、コミューンでは同じく選挙で選ばれることになっていた行政官僚が、プロレタリアート全体の代表者を僭称して専制権力を行使するという話ではなく、全く逆に、議員や官吏が選出者である住民たちの指揮・監督下に置かれるということに他なりません。ブルジョア民主主義では、権力の暴走を抑制するために、権力を三つに分割して相互にチェックさせるという方法を取りましたが、主権者である国民にとっては自分たちの頭の上で権力者同士が互いをけん制し合ったり、出し抜きあったりしているだけの話です。これに対してプロレタリア独裁は、主権者であるプロレタリア大衆が議員や官吏を指揮・監督することで権力の執行者の暴走抑制をより実効性のあるものにしようという制度なのです。

不破の「寝言」が問題にならないのは、言うまでもないことですが、池田さんは、巧妙に、ブルジョア議会の代表制の問題という、核心に触れる事柄を取り上げつつ、全体としてはマルクスを歪曲するという、イリュージョンを演出しています。

退屈しのぎには面白い見世物ですが、それを真実であるかに吹聴するに至っては、聴衆をバカにした仕儀であると言わざるを得ません。
 
24年1月8日訂正