再び認識論上の議論へ(3)【ハイエク Vs. ノイラート】 | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

 
Economy and Society Volume 32 Number 2 May 2003: 184-206
Socialism, associations and the market
John O'Neill


 
これらの主張を擁護することは、それが制度の多元性の主張と理解される限りでは、ホジソンが非純粋性原理(impurity principle)と呼んでいるものを受け入れるということである(Hodgson 1999: 126)。このような多元主義の必要性について、ホジソンとノイラートの間には、一般的な水準では、はっきりしとした共通基盤が存在する。
 
先に述べたように、ノイラートは「同時に経済のいくつかの非資本主義的形式を支持することができるような経済的寛容」を擁護する(1920b; cf. 1920a: section 22)。この経済的寛容には、正当な認識論的理由―すなわち、異なる形態の知識は、異なる実践のうちに対象化されているということ―がある。
 
加えて、人間にとって望ましいものが持つ複雑な性質にかかわる理由も存在する。たとえば、科学的な業績、健康と愛の価値に対する承認は、それらが異なる性質を持つ以上、同一の制度的原理によって分配することなどできない。第一のものは、そのメリットによって、第二のものは、その必要性によって、第三のものは、親近感と愛情の豊かさによって評価されるのである。
 
それゆえに、多くの商品の、市場原理に従う分配に反対するのである。この点は、ノイラートが、一般的な価値尺度としての貨幣の使用に反対して展開した事柄である。
 
貨幣は、価値の一般的な基準ではなく、特定の社会的な関係に関する特定の制度の要素に過ぎない。同様に、「コスト」、「利潤」、「投資」などの概念も、いずれもある一つの制度的環境の限界内で、特定の意味を持つにすぎない。我々が、それらの概念を1つの制度的環境からそれらがもはや適合しない別の環境へと『移す』とき、問題が生じるのである。
 
「貨幣の使用に対する反対があり得るとしても、貨幣を歴史的に与えられた制度とみなすことのうちには、そのような反対は含まれていない。しかし、この見方は、より高度な経理の分野で有効な議論を、社会的な問題の分析と一般的な人間の幸福に適用することへの反対を含んでいる」(Neurath 1944: 39)
 
ノイラートは、市場自体がその余波としてもたらすかもしれない実践の画一性に反対するのである。
 

New Model Army - Purity (live)(Dragon Rider)
from their fifth album "Impurity"