再び認識論上の議論へ(2)【ハイエク Vs. ノイラート】 | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

Economy and Society Volume 32 Number 2 May 2003: 184-206
Socialism, associations and the market
John O'Neill


 
☆この反対論は、より脱集権化された形態の社会主義に対してどの程度威力があり、どの程度それはノイラートのよりラディカルな非市場型アソシエーション社会主義に抵抗しうるのだろうか?
 
ノイラートがハイエクの実践的知識の重要性を過小評価しているという論難は、私が以前行ったものである。今や私は、これは言い過ぎであったと考えている。
 
ノイラートは、ハイエクに対する返信の中で伝統と実践的スキルの重要性を認めている。そして、バイエルンの経験以来の社会化計画に対する実践的取り組みにおいてノイラートは、当時の社会主義者の間で支配的だった傾向とは相容れない慣習のために大きな役割を保持した。
 
この見方は彼のエセ合理主義への会議に根ざしている。「本能、伝統、補助的衝動は、いずれもエセ合理主義の反対物である」(Neurath 1913: 10)。理性の支配に限界があるのならば、社会的慣習や個人的習慣を取り除くことは、不能であるし望ましくもない。
 
しかしながら、理性が行き詰まったときに先に進むための手段に過ぎないものとして慣習的行動が理解されているその限りでノイラートの立場には理論的な弱点があるといえる。慣習的行動自体は知識や判断の実践的対象化としては描かれていないのである。その限りでノイラートの立場は、ハイエクの反論への応答として完全な適切さを持つとはいえない。 
 
しかし、思うに、多様なアソシエーションの実践という点では、ホジソンの立場には弱点があり、それはハイエクにも共通しているが、ノイラートのアソシエーション主義がそれを明らかにするのである。
 
☆ホジソンは、実践知の役割を強調するとき、ハイエクと同様に、科学における暗黙知についてのマイケル・ポランニーの議論に向かう。「ポランニーが説明しているように、すべの科学的前進と技術的イノベーションは、暗黙知と切り離すことができない。それらは、個人と制度に植え込まれた技量と習慣の蓄積に依存している」(Hodgson 1998: 49)。これに関しては、ホジソンは完全に正しいだろう(O’Neill 1998: 150ff.)
 
しかしながら、暗黙知をコーディネイトする価格と市場の必要性がポイントなのだとしたら、この例は、奇妙なのである。科学的知識のコーディネートは、暗黙的、明示的知識の両方とも、ノイラートが強調するように、近代世界の達成物のひとつだが、公開の科学コミュニティは、この近代世界において優勢な非市場的社会秩序の格好の例なのである。
 
さらに、市場メカニズム導入に際しての危険は、イノベーションの確率を高めるよりも、むしろ遅らせるということにある。イノベーションに決定的に重要な知識の制御は、知的所有権の支配と知識の公共的利用可能性と間の軋轢という問題を抱えている。より一般的に言えば、知識のコーディネーションは、暗黙的なものも明示的ものも、社会的経済的秩序のどの部分においても存在する普遍的な(ubiquitous)問題なのである。ノイラートが指摘するようにそれは、工場においても存在する。
 
知識と技量が近代世界の経済生活の中心を占めるようになるにしたがって、非明示的知識を遺漏なく様々な種類の経済組織に行き渡らせることがますます重要な課題となってきた。市場は、コーディネーションの要件ではないし、科学のケースが示すように、いくつかのケースで障害となりうるのである。
 
色々な制度的形態の経済を通じての多様なコーディネーションの水準が存在する。さらに、我々の知識のこのようなコーディネーションの仕組みは、しばしば、実践的かつ非明示的である。それらは、我々が完全には観察しきれないような多様な実践の中に対象化されているのである。