【ハイエク Vs. ノイラート】再び認識論上の議論へ | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

Economy and Society Volume 32 Number 2 May 2003: 184-206
Socialism, associations and the market
John O'Neill


 
☆アソシエーション主義のこれらの形態は、果たしてどこまでハイエクによる社会主義への認識論的批判に持ちこたえることができるだろうか?ハイエクは、彼が間違ってノイラートのものだとした立場に対してではなく、本当のノイラートの立場に対して応答することができたはずではないのか?
 
ハイエクの批判が中央集権的な機関への全情報の伝達が不可能である点に特に集中的に向けられていた限りでは、ノイラートの立場は、同じ批判に隙を与えるようなものではないのかもしれない。彼のアソシエーションには中央集権化の必要がないのだから。とはいえ、ノイラートのような立場も、依然として類似の問題に直面する可能性もないわけではない。
 
ハイエクの反対論は、より分権的な民主的計画の提案に対する反対へと転用された。例えば、ディヴァインとアダマンによる民主的計画の提案に対するホジソンの反対を想起されたい。彼らの提案は、ノイラートによって展開されたものとは多くの点で違いがある。貨幣と市場の役割が残り、より一層脱集権的な協議計画のシステムが明確に押し出される。
 
ディヴァインと アダマンは相互に影響を受ける諸グループ、例えば各生産単位、各単位の所在する地域コミュニティ、各生産単位が関係をもつ他の生産単位、それらの顧客などの間に「交渉された調整」の過程を通して生産単位の生産力に変化が起きることがあり得ると示唆する。
 
ホジソンは、この提案が、ハイエクによる認識論的批判の核心点に応えることに失敗していると主張する。この反論は、様々な経済主体の間の知識の分散だけではなく、実践において対象化されていて、そして命題形態に明瞭に表現されることができない「暗黙」知の分散に関係している。
 
議論は、同じ反対理由が、明示的な熟考を通しての調整を要求するすべてのシステムに当てはまるという方向に向かう:「いったいどのようにしてこれらの委員会は、個人やグループが『知ってはいるが話すことのできない』事柄について討論したり熟考したりできるのだろうか?」と。
 
同じく、ウェインライト(1984年)に見いだされる種類の、社会的な知識に対する要請も、そうした知識が、公共の熟考には利用できないような仕方で実践のうちに対象化されていることを認識できていない。議論は、分散する暗黙知のいかなる調整も「相当程度までに市場と価格メカニズムに依存した」仕組みを必要とする (Hodgson 1998: 419)という結論に至る。