(ハイエク Vs. ノイラート)市場抜きの諸アソシエーション-この節終わり | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

Economy and Society Volume 32 Number 2 May 2003: 184-206
Socialism, associations and
the market
John O'Neill


 
☆自主的に組織された諸活動を伴う持続的な調整へのノイラートの関心は、彼が中心的な役割を果たした、彼にとって三つ目の社会的運動、統一科学運動にも及んでいる。統一科学運動を社会運動と呼ぶことは奇妙に思われるかもしれない。確かにこのような理解は、この運動の通常の描き方と違っている。
 
統一科学運動の事後的な説明は、この運動を実証主義的還元主義のプログラムとして提示する傾向があった。この還元主義は、統一科学国際エンサイクロペディアの最後の刊行物のひとつであるクーンの『科学革命の構造』とともに滅んだのであるが、こうした見方は間違っている。還元主義が統一科学運動に携わった人たちの間に見られなかったわけではないが、多くの関係者、とりわけノイラートはそれを拒否していた:すべての記述、すべての科学を調整された[相互依存的な(?)-翻訳者-]ものとして扱い、伝統的な階層化、つまり物理学、生物学、社会科学やそれに類した科学的ピラミッド主義は、永久に放棄してしまった方がいいのではないだろうか?
 
ノイラートは、また、しばしば、この運動の事後的なイメージの一部になっている科学のための単一の統一された方法の信奉という教義にも反対している。ノイラートは、自然科学と社会科学の間に原理的な違いがあるという考え方を拒否する一方で、科学の方法に関しては、多元主義者だった。科学に単一の方法があるという信念はエセ合理主義の一形態だった:それゆえ彼は、反証主義にも検証主義にも反対したのである。最後に、クーンと結び付けられる科学の社会学とノイラートとフランクの所期の社会学的説明との溝は、考えられている以上にずっと小さいのである。
 
☆統一科学運動の中心的なプロジェクトは社会的な運動であった。それは、科学界の諸活動と諸成果を、社会変革のための一般的な民主主義的運動の一部として、また、社会的計画化のために知識を調整する手段として、コーディネートする運動であった。プロジェクトの意図したものは、異なる分野間の調整であった。このプロジェクトは2つの社会問題に取り組んだ。
 
1のものは、ノイラートが「知識の民主化」と呼んだものであり(Neurath 1945c: 254ff.)、赤いウィーンの文化教育運動以来、ノイラートの業績の中心を占めていたものである。博物館での彼の仕事とISOTYPE-グラフィックスによる視覚教育は、この同じ社会的プロジェクトに属していた。
 
2の問題は、様々な科学に拠りつつ物事の特定の状況についての決定を引き出す方法である。この問題は、知識の様々な形態を必要とする社会的計画のどんな可能性にとっても重要なものである。
 
この問題へのノイラートの反応は、科学のための言語の統一(特に物理主義)の擁護弁論だった それは、科学のすべての記述は、時空の詳細だけに言及する用語を含んでいる文によって制御できるという見方である。
 
思うに、どちらの問題に関しても、この回答では不適切である。どちらの問題も、用語上の解決案が回答とはならない社会的問題なのである。すべての人に理解できる用語を用いることで科学を民主化する方法など存在しない。むしろ、それは、科学の主張を市民が信頼できるようにする制度的調整の維持という問題なのである(O’Neill 1993: ch.8)
 
そして、科学者間の協力を容易にするために、一般的な物理主義言語が必要というわけではない。何よりも、科学のオーケストレーションは、特定の社会的制度を必要とするような一つの社会的事業である。それは、ノイラートが擁護したような類の科学言語の統一とは、関係がないのである。
 
☆しかし、科学の社会的事業と国際的な科学界のために必要とされる組織的関係は、市場と計画をめぐる論争の文脈においては、有意義である。
 
ノイラートの仕事の中で科学のオーケストレーションは、いかなる権威的統合も用いずに行動の調和をいかに十分に実現できるかを示す事例とみることができるのである。科学は位階的組織なしで統合されている。
 
我々が科学の中に見出すようなオーケストレーションのモデルには、計画についてのノイラートのビジョンが反映されている。特に、彼の晩年の著作における、ありうべき、「『国家的位階制』に依拠しない将来の秩序、こういってよければ、いかなる階層的世界様式とも一致することのない重複的諸制度に依拠する秩序」(Neurath 1943:149)に、それは反映されている。
 
このビジョンの説得力がどうであれ、肝心なことは、次の点である――科学界は、現存する経済における非市場的国際秩序の一例だということ、それは、現存する市場社会の内部において知識と活動の非市場的調整の多くの例の1つを提供しているということである。それは、ノイラートが正しくも我々の注意を喚起している一つの社会的事業である。次節で私はそれに再び立ち帰ることにする。