市場抜きの諸アソシエーション-その5-(ノイラートのハイエクへの応答) | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

 
Economy and Society Volume 32 Number 2 May 2003: 184-206
Socialism, associations and
the market
John O'Neill


 
☆バイエル革命期間中のノイラートの社会計画は、ついに実現されることはなかった。しかし、この経験についてのノイラートのその後の省察は、知識と意思決定の集中を伴わない計画化という問題と深く関わるものになっていった。第2の主要な活動は、戦後のウィーンでの住宅運動への取り組みである。それは、彼の社会化についての著作の中の、建設と住宅に関する事例への言及に反映されている。
 
バイエルン革命の敗北のあとウィーンに戻ったノイラートは、社会経済研究所の幹事になった。この研究所は、社会主義経済の発展のための情報を収集することを目的としていた。彼は、この研究所での仕事として、ドイツの庭園都市運動の創始者であるカウフマイヤーを講師として招聘し、彼を通じてウィーンのセツルメント運動取り組むようになっていった。
 
1921年には、ノイラートは、小庭園開拓同盟(the League of Settlers and Small Gardeners)の事務局長に就任した。第1次大戦の末期および直後の食糧難の時期に、セツルメント運動は成長し、このとき多くの都市住民が都市郊外に食糧生産と家畜飼育のための小庭園を建設していた。相互扶助のための地方組織を通じて、これらの庭園は、小規模の田園都市へと発展した。
 
1916年には、同盟は、13の地方組織に、わずか2000人のメンバーを擁するだけであった。ノイラートのこの運動についての最初の報告では、230の地方組織と、30000人のメンバーを擁し、後にその数は、約50000人に増大した。運動の規約は、政党活動の排除をうたっていたが、運動内には、種々の社会主義者、無政府主義者、共産主義者、保守主義者の勢力が含まれていて、彼らはしばしば衝突を引き起こした。
 
社会民主党は、はじめのうち懐疑的な態度を示していたが、協力的となり、市当局は、土地の貸し出し、水その他の供給などを通じて運動を支援した。最終的には、戦後のウィーンの、社会民主党によるより大規模な住宅プロジェクトに吸収されたが、この実験は、成功であった。
 
☆この組織におけるノイラートの役割の特徴は、彼が、この運動を調整することになるより大きな全国的社会主義組織の内部で歴史的な既存の諸協同組合と諸アソシエーションを維持することを主張した点にある。この問題は、自主管理された諸活動の調整のひとつであり、私的所有化に向かう運動内の傾向に対して社会的所有を擁護するとともに、運動をひとつの協同運動にするような、諸活動の調整においてある程度の規律を維持しようとするものであった。
より大規模なバイエルン共和国の社会化計画との違いは、その規模にあったことは明らかである。ウィーンの運動は、全体経済の調整ではなく、住居と土地利用について独自の目的を持った諸協同組合間の調整に携わるものであった。とはいえ、そのようなアソシエーション的な秩序は、ノイラートにとっては、経済の、より広範な非市場的な社会化の基礎上において形成されるものであった。