ハイエクへの応答(中編-その4-)  完全知識を必要としない社会主義 | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

Economy and Society Volume 32 Number 2 May 2003: 184-206
Socialism, associations and
the market
John O'Neill

 
ここでの多元主義は、ノイラートが科学哲学の中心に据えた科学自身が持つ諸性質に由来するものと理解されている。科学理論の根拠による決定不可能性。経験的根拠の不確実かつ暫定的な性質。科学的な言明は、個別に根拠に直面しないがそれは論理的に相互接続された一連の主張としての根拠に直面するという事実。[これらが科学の諸性質である。] 彼がいろいろな場所で用いている比喩によれば、我々は、航海中に船底の修理をしなければならなくなった船乗りのようなものである。
 
理論を確定的に承認したり、虚偽と判定したりできるような[単一の]科学的方法や規則は存在しない。科学が単一の最善理論に必然的に収斂すると信じる理由はない。「同一の複雑な事実の説明のために、複数の仮説体系が成立することはしばしばありうる」(Neurath 1916: 29)。同じ経験的根拠の海を異なる複数の船が航行することも可能なのである。「我々は常に、一連[a set]の“諸世界”やさらには諸言明の包括的な一連[a set]の諸構造などについて議論しなければならない」。このような意味でノイラートの論理実証主義は、多元的なのである。擬似合理主義に対する彼の拒絶反応と彼の論理経験主義の間の関係は講演「議論と行動」に要約されている。
 
エセ合理主義のもっともよく知られているタイプは、一つの好適な理論が存在し、それは一群の好適な決定を伴っていると信じ、研究、討論、推論の力を誇張するといったものです。経験的検証テストによって一つの理論を確証したり、論破できると考え、したがって科学的問題をチェス競技者にとってのチェス盤上の問題のように議論できると考えているような人は、誰であれ、彼が使っているものは、完璧なまでに明白な諸言明の完全体ではないのだということを見落としています。日常語で表現されるような諸言明は、ある程度の「曖昧さ」、「不正確さ」を持っているし、それは、膨大な量の、可能なる追加的観察言明からの相対的に小さな選択でしかありません。しかも、この追加的観察言明は、検証理論と矛盾するかもしれないもの、矛盾することのあり得るものです。最後に、すべての観察言明が、検証のために切り離すことができない一般的な規則を暗黙のうちに含むことが心に留めておかれなければなりません。経験主義の全体は、いわば、常に議論の中にあります。(Neurath 1940)(4)
 
 ☆この立場から導きだれるものは、問題に固有の限定された解答を提供する際に科学と技術的な専門知識の役割のためになされる過度の主張についての懐疑論である。
 
 ノイラートは、「セット」を強調する。ノイラートの統一科学論とは、諸理論間の社会的分業論ということか?それは、確かに、ハイエクの「分知」論に通じる。ノイラートは、理論の検証を個々の理論の主観的な論理整合性に求めることを拒否している。この限りで彼は、存在主義が認識主義として批判する論理実証主義の問題点を指摘しているといえる。 存在主義の批判対象である「実証主義」とは、「認識の確からしさを何らかの仕方で個別的な『事実』の確からしさに依存させる」(有井行夫『マルクスはいかに考えたか』)という態度に他ならないが、エセ合理主義に対して個別的で確実な根拠は提示できないと批判する限りで、ノイラートは実証主義の批判者のように見える。
 
問題は、ノイラートが彼の批判対象である主観的な論理整合性に対して、自らの拠り所として何を対置しているかである。
 
存在主義の立場から見たとき、ノイラートが犯す危険がある誤りは、次の2つであろう。一つは、単なる相対主義、不可知論への到達。もう一つは、主観主義の批判を志向しながらせいぜいのところ間主観主義という非主観主義を装う主観主義への帰着。もっとも、後者は前者に含まれるともいえる。いずれにしても諸理論の分業成立の地盤をどこに求めるかによって、彼の成否は決することになる。