ハイエクへの応答(中編-その5-)  完全知識を必要としない社会主義 | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

Economy and Society Volume 32 Number 2 May 2003: 184-206
Socialism, associations and
the market
John O'Neill

 
このような予見可能性について一般的懐疑論は、社会的意思決定に対して特別な関係にある。科学の予見不可能性は、一般に社会的意思決定に関する最適解の発見というテクノクラートの理想が支持できないものであることを意味する。ミーゼスのような理論家やテクノクラート運動の理論化が想定するような最適決定に到達できるようなアルゴリズムなど存在しないのである。ノイラート議論の発展は、彼の最後に発表した論文に要約されている。
 
既に第1次世界大戦の前に、私は、我々の科学的アプローチにおける一種の初歩的な多元主義を認めることが、私たちの日常生活にとっても影響を持っていることに気づいていた。もし、科学によって我々が一つ以上の適切な予測を行うことができる場合、我々は、科学を行動の手段としてどうのように使えるだろうか?我々は、決して決定を廃止することはできない。なぜなら、どんな計算も一つの行動を最善のものとして示すことはできないし、どんなコンピュータ処理も我々に、最適な行動を提案できないからである。どんな行動についても討議に付される必要がある。(Neurath 1946b:80
 
このように、ノイラートは、テクノクラティックな合理主義にコミットするどころか、ノイラートの業績の、特に彼の晩年の業績の中心的なテーマの一つが、社会的意思決定において最適解が存在するという信念を伴うテクノクラティックな解決を否定することだったのである。このことは、彼の「自由のための国際計画」に最もはっきりと示されている。この計画において彼は、「いわゆる『テクノクラティック』運動」に反対した。それは、「一つの最善の解が「最適幸福」についても、「最適人口」についても、「最適健康」や「最適労働週」、「最適生産性」、その他この種のものについて存在すると想定し、技術者とそのほかの専門家に、「大計画」の選定にあたっての特別な権限を与えるよう要求するものだった。(Neurath 1942:426-7)
 
☆社会生活上の完全予見可能性に反対するノイラートのケースは、経験主義の彼独特のバージョンを伴う多元的懐疑論にとって意味があるだけでなく。歴史主義に反対するポパーにおいて中心を占め、また発見手続きとしての市場というハイエクの見解を貫いてもいる、人間知性の予見不可能性という特殊な諸属性にとっても重要である。[今読んでいる]小説[のこの先の展開]がどうなっていくか予測できず、したがって「天体の運行の予想のようには、社会の変化を予想することはできない」ということは、まさしく人間の知識と発明の特徴である(Neurath 1943: 148)。ハイエクに対してノイラートが指摘したように、肝心な点は、科学者というものは、海上で船底を修理しなければならなくなった船乗りのようなものだということである:「新しい船は、古い船の内部からしだい成長してくる。船乗りたちは、修繕作業をしながら、もう次の構造のことを考えているかもしれないし、彼らはいつでも互いに同意に達するものとは限らない。すべての事業事業の総体は、今日だけに限っても予想できないよう仕方で進むだろう。それが我々の運命なのだ」(Neurath 1944: 47, emphasis added) 。将来の知識と発明を予見することはできないという主張は、ハイエクおよびポパーと共有されている。しかしながら、それは、異なる結果において現れる。それは、ノイラートの業績においては、科学とユートピアの結合の基礎である:未来を予見するということは、海上の船乗りが海を生活へ取り込むようなものである。所定の知識からの推論ではなく、社会的な発明の試みである。