続 ハイエクへの応答 完全知識を必要としない社会主義(中編-その3-) | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

Economy and Society Volume 32 Number 2 May 2003: 184-206
Socialism, associations and
the market
John O'Neill


 
1945年の一連のノートと書簡の中でノイラートが、ハイエクによる批判に対する応答を通じてアピールしているのは、ハイエクと彼との間の連続性に他ならない。そのノートは、ハイエクとの公開書簡のやり取りを希望していたノイラートが議論の基礎にしようと準備していたものである(Neurath 1945a, 1945b)。公開での書簡の交換はなされなかった。その年の末に、ノイラートがこの世を去ったのと、ハイエクが公開書簡の交換にほとんど熱意を示さなかったためである。そのため両者の見解の類似点は、ノイラート自身がノートに書き残すことになった。
 
私は、ハイエク氏の見解と歴史的見通しについて多くの点で不同意であるにもかかわらず、彼を、我々フィジカリストともにこの時代のエセ合理主義と闘う研究者とみなすべきであろう。エセ合理主義は、科学を一つの偶像として用いようとし、科学者や疑似科学者を、「テスト」を通じて我々の生活を指導できる、生まれながらの一種の指導者とみなそうとしている。それでは、「テスト」する者をだれが「テスト」するというのか?(Neurath 1945a)
 
ノイラートのノートとハイエクに対する応答の中心的テーマは、エセ合理主義に対するこうした拒絶が二人の間で共有されているのをハイエクが確認できずにいることへの不満である。
 
勿論です。唯一のそして唯一最善の解決方法を科学的なものとして提起しようと試みる人々、私は、彼らをエセ合理主義者と呼んでいますが、そういう人々は確かに存在します。そして、私は、このエセ合理主義が危険であり、時には全体主義を後押しするものになりうるというあなたのお考えに同意します。しかし、あなたは、論理経験主義[Logical Empiricism] によって提起されている科学的な態度が存在するということに、少なくとも言及すべきです。この立場は、徹頭徹尾、多元主義的なのですから。(Neurath to Hayek 11.1.4 in Neurath 1945b)
 
 
さて、この「多元主義」が大いに問題となりそうです…