オニール続き 完全知識を必要としない社会主義(中編-その2-) | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

 
Economy and Society Volume 32 Number 2 May 2003: 184-206
Socialism, associations and
the market
John O'Neill


☆ノイラートは、ミーゼスの「数」という地盤の上での議論を拒否した。もっとも留意すべきは、厚生の多次元的性質には、どんな類の単一尺度も適合的ではないということである(Neurath 1937)。ノイラートの批判の基礎には、ミーゼスの社会主義の可能性に対する攻撃は、ノイラートが初期著作の中で攻撃してきた実践理性の領域におけるある種のエセ合理主義を、正確に提示しているという主張がある。
 
次元の異なる選択肢を単一の尺度で把捉することや選択問題を計算問題に還元することが可能だなどと想定し得る根拠などない(Neurath 1925)。ミーゼスの立場は、ノイラートが拒否したテクノクラティックな理性概念を基盤としている。
 
☆すでに指摘したように社会主義経済計算論争には、一般に信じられているほどの一貫性はない。ハイエクとノイラートは、論争の相対立する立場に立ちながら、それぞれ自分の側の論者たちの議論と矛盾するような、知識と理性の限界についての想定を共有している。この矛盾は、ミーゼスやランゲとの関係において特に注目すべきものとなる。
 
ハイエクは、ミーゼスの貢献の解釈として、ハイエク自身の認識論的議論を提示しているが、その説明は、彼とミーゼスとの距離を覆い隠すものとなっている。ミーゼスの当初の議論では、知識問題についてのついでの言及はあるものの――ミーゼスは、例えば、費用と便益を「全体として容易に認知できる」(1981: 98)個人の選択と、より高次の財を扱う社会的選択とを対比している――、しかしながら、知識問題は中心的主題とはなっていない。ミーゼスが問題にしているのは、価値という単一の単位が与えられるような選択が成り立つ可能性の、すなわち通約可能性の諸条件の一つである。
 
ハイエクの著作では、認識問題こそが前面に押し出されている。認識論的関心を中心におくことによって、ハイエクは問題を転換したのである。ハイエクの貢献は、社会主義経済計算(calculation)に対するものでは全くない。ハイエクが、ランゲに対して、社会主義的秩序においても[机上の]経済計算(calculation)が可能だという主張が、市場で形成される価格なしに[実践上の]経済勘定(accounting)ができるという主張に置換されてしまっていると不満を述べるとき、ハイエクは、ランゲとの距離ばかかりでなく、ミーゼスとの距離をもはっきりとあらわしている。
 
非市場社会主義における合理的経済計算(calculation)の可能性に対するミーゼスの反対論は、計算の問題とみなすことができる。選択の問題、例えば二つのエネルギー源の間の選択の問題が生じた場合、我々は、選択肢の間の比較を可能にしてくれるような計算(calculation)単位を持たなくてはならない[と、ミーゼスは言う]:「事業が理に適っているかどうか決めるために、我々は慎重に計算(calculation)しなくてはならない」(Mises 1981: 98)(3)
 
ここでミーゼスと立場を異にしているのは、ランゲではなくハイエクである。ハイエクの著作では、経済計算の問題(calculation)は全く存在しない。以下の事柄を示そうとする試みこそ、ハイエクのこの論争への主要な貢献なのである。すなわち、異なる社会的選択肢を比較するための計算(calculation)という手続きなしに、我々には合理的な意思決定ができること示そうという努力である。こうした努力によってハイエクの立場は、ミーゼスよりもノイラートにはるかに近いものとなるのである。