承前 ハイエクへの応答:完全知識を必要としない社会主義(中編) | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

Economy and Society Volume 32 Number 2 May 2003: 184-206
Socialism, associations and
the market
John O'Neill


 
ノイラートが現物経済を擁護したのは、その時点での計算論争の争点にかかわってのことではなかったのである。ハイエクの批判のどこが的外れかといえば、ノイラートは、理性の限界を認識し損ねているテクノクラート的合理主義を守ろうとしているのだと、ハイエクが主張している点である。ノイラートは、早くも彼の1913年論文 "迷走する放浪者デカルトと補助的動機"において知識と理性の完全性という見方を拒否していた。それは、後のハイエクの見解を先取りするものであった。
 
意思決定問題を解決する力として理性を過大評価することは、ノイラートにとっては、彼が“エセ合理主義”と呼んでいるものの標識だったのである。理性に信頼を置く[真の]合理主義は、決定へと導く理性の力の限界を見極めなければならない:「[真の]合理主義は、その主要な優位性を、実際的な洞察力の限界をはっきりと認めることのうちに見出している」(Neurath 1913: 8)。すべての意思決定への回答を割り出せる洞察の規則が存在すると信じることこそ、エセ合理主義者の標識なのである。
 
エセ合理主義は、行動と思考の両方の領域内に存在する。理論の分野では、それは偽りを排除し、真実にますます接近する科学的な方法のためのルールが存在するという信念に示されている。デカルトの哲学を特徴づけるものは、行為における理性の規則の限界を認識しているにもかかわらず、心の方向付けに関する規則での同様の限界を認識することに失敗している点に求めることができる。行為においてと同様に、理論的な事柄においても理性は、我々の選択肢を完全に決定することはできない。
 
ノイラートがエセ合理主義への拒否を示したのは、計算論争の序章であるミーゼスとの議論においてだった。ミーゼスは、比較を可能にする単一の通貨的尺度なしには複数の選択肢に対して合理的選択はできないということを根拠に、社会主義の可能性を否定した。
 
ミーゼスは、実践的理性のアルゴリズム的な捉え方を前提している。合理的な意思決定は、様々な選択肢からの選択を、計算上の問題に、つまり問題の解を導くための計算という機械的手続きの適用へと還元してくれる単一の共通単位を必要とすると。
 
だから、例えば、発電に落流を用いるべきか、石炭利用を拡大してそれにふくまれるエネルギーをもっと十分に利用すべきかを選択しなければならないとすれば(Mises 1981: 98)、より高次の生産財の代替用途の特徴と利点を計算するいくつかの方法が必要であり、結局、尺度としての共通単位が必要となるという。尺度のための共通単位は、市場における貨幣表示の価格によって提供される:「交換価値に基礎を置く計算によって、諸価値を共通単位に還元することができる」(Mises 1981: 99)
 
当然、それは、比較のための唯一適切な単位とされる。複数の選択肢を比較するためには、単純な規則に従うという方法で選択肢の優位性について明白な解答が持てるように交換価値を尺度する貨幣表示の価格が必要であると。この立場は、ミーゼスのその後の著作においても維持されている。それは、人類の活動においては、個々人の合理的な経済活動においてすら一般的な特徴であると解釈される:
実際的な人間は、彼が達成したいと思っていることが、諸事情の現在の状態と比較して、また同じく彼の心中にありながら、この計画を実行に移した時、利用できる手段がこの計画に奪われるために実行できなくなる他の技術的に実行可能な計画がもたらすであろう諸々の利点と比較して、改善をもたらすものなのかどうかを知っていなければならない。このような比較は、貨幣表示の価格によってのみ可能となる。(Mises 1949: 209)