ノイラートのハイエクへの応答:完全知識を必要としない社会主義(前編) | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

Economy and Society Volume 32 Number 2 May 2003: 184-206
Socialism, associations and
the market
John O'Neill


 
ノイラートは、実物経済をはっきりと擁護し、そしてもちろん第1次世界大戦後のバイエルン革命においては、この種の経済を実現させようとする試みを彼の社会化計画の中心に据えた。社会主義経済は、財貨の使用価値だけを考慮すればよいので、自ずと非市場経済とならざるを得ず、そこでは、代替物の比較において通貨単位が果たす役割は存在しない
われわれは、時代遅れの偏見から自由になる必要がある。そして、単一な大規模な経済を、どんな完全な計画経済もそこに行きつく他ない、今日となってはより重要で、完全に有効な経済の形態と見なければならない。したがって、社会化は、単一経済の進化を意味する。分散的で制御不可能な貨幣秩序を維持しながら、同時に社会化を求めるのは、一つの内的矛盾である。(Neurath 1919: 145
 
こうした経済においては、エネルギー使用、原材料使用その他の物理的統計が必要となる一方で、単一の衡量単位の必要性はなくなるだろう:「意識決定の基礎として使われるような単位としては、貨幣も労働時間も存在しない.人は、二つの可能性の望ましさの比較を直接行うことができる」(Neurath 1919: 145)。意思決定のための単一の度量単位が存在しないなら、選択に当たって選択肢の直接比較が要請される。結局、技術的な決定であっても政治的・倫理的判断を排除することはできないのである。ノイラートは、市場に対する批判としてのみならず、労働時間やエネルギー単位を意思決定の単一の単位として採用する市場に対する社会主義的代替案の提示としても、この主張の展開している。
ここに一つの問題があるとしよう。我々は、炭鉱を保護すべきか、それとももっと人手をかけるべきか? 答えは、我々が、例えば、水力発電が将来十分に発達するだろうとか、太陽熱がより良く利用されるようになるだろう等々と、考えるかどうかに依存する。もし、そのように考えるとすれば、もっと石炭を自由に消費することができ、石炭が使用可能な土地では、人間の労力が浪費されることはほとんどない。しかし、我々がもし、この世代が石炭をあまりに大量に消費した場合、将来数千の人々が凍死するかもしれないと恐れるなら、石炭を節約するかもしれない。このような多くの非技術的条件が技術的に計算可能なプランの選択を左右するのである。生産計画をいくつかの単位に関するものに絞り込んだうえで、それらの単位を用いてそれらの計画を比較することも、可能であるとは思われない。(Neurath 1928: 263)