ハイエク: 認識論、市場そして社会主義 |オニール続き(3回目) | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

Economy and Society Volume 32 Number 2 May 2003: 184–206
Socialism, associations and
the market
John O’Neill


 
計画に反対して市場を支持する認識論的主張は、計画経済が解決できない無知の問題の解決として市場を提示する。人間の知識の二つの源泉が取り上げられる。一つは、ハイエクが社会における知の分業と呼ぶもので、その核心は、単に社会の中のさまざまな個人やグループの間に知識が分散していることにではなく、そのような知識の持つ性格の方にある。それは、実践やスキルの中に対象化されていることが珍しくない実践的あるいは「暗黙の」知識、特定の場所と時間に制限された詳細な事柄についての知識を含んでいる。このような知識を、一般化された形態で明示することはできない。したがって、それは単一の計画機関に引き渡すことができるような類の知識ではないのである。
                                                                                           故にまた、相異なる経済主体の諸活動の調整に必要なすべての知識を保有する計画機関というものも、原理的にあり得ないのである。これに対して、価格メカニズムは、諸個人の間で次のような情報の伝達を行うことができる。すなわち、彼の経済活動の調整に必要であると同時に、彼らにそれぞれに固有の知識を活用することを許すような情報である(Hayek,1937, 1945)。こうした調整にとって中心的な意義を持つのは、市場で新しい機会に常に気を配っている企業家の活動である。企業家の活動を通じて市場は、発見のための手続きとして作動するのである。企業家は、意識決定の時点では予見できない将来という、無知の第二の源泉に直面する。
                                                                                           将来の知識と発明の予見不可能性を前提すれば、将来の人々の欲求は原理的に予見不可能である。消費のための新しい対象の開発と生産によって欲求は変わる。しばしばポパーのもとされる次のような主張がある。人間の知識の進歩は予見不可能である――もし、我々が将来の知識を与件できるのであれば、我々はすでにその知識を持っていることになるのだから――(Popper1944-5)。もし、人がこの主張を受け入れるなら、それは次のことを意味するだろう。人間の発明は、その知識の進歩に依存しており、また、欲求は、発明によって作り出されるのだから、将来の人間の欲求も原理的に予見不可能である。したがって、どの時点においても我々は将来の人間的欲求の全射程については全く知る由を持たないのである。市場は、将来についての様々な仮説が企業家の活動に対象化され、市場において検証を受けるという、発見のための手続きとしてあらわれる(Hayek 1978:179-90 cf. Kirzner 1985)。このような活動を通じて市場の調整は実現する。
 
 ハイエクにとって、社会主義とは、人間の知識と理性の射程についての誤謬に基づくものでしかない。それは、ハイエクが「合理主義」、「超合理主義」、「デカルト的合理主義」等々様々な呼び名を与えている誤謬であり、理性の全能性への間違った信仰である。対照的に、ハイエクは、人間理性にとって最も困難で、そしてまた決してもっとも軽々しく扱ってよいはずのない課題は、理性それ自体の限界を理性的にとらえることだといえるかもしれないと述べている(Hayek 1942–4: 162)。このように、市場を支持し計画に反対する議論は、理性と知識の限界についての主張から始まるのである。
                                                                                          ハイエク(1941, 1942–4)は、オットー・ノイラートこそがこの間違った理解の主要な提唱者であると主張した。ノイラートのある種の実物計算に基づく社会主義経済の提唱は、彼の社会科学における「物理学主義」や「客観主義」への擁護と相俟って、ハイエクがこれまでそれを否定することに関心を集中させてきたテクノクラート的合理主義の形態をまさに示していると、ハイエクには思えたのである。「実物計算による社会主義の最も粘り強い提唱者は、まぎれもなく、現代の『物理学主義』と『客観主義』の提唱者でもある、オットー・ノイラート博士なのである」(Hayek 1942–4: 170)
                                                                                          「客観主義」と実物計算への信念は、ハイエクから見れば、社会工学者に典型的にみられる、理性と知識の射程についての幻想に他ならない。「非合理な経済諸力が事物の客観的性質の研究に基礎を置く諸達成を妨げていると感じている社会工学者たちが理想としているものは、通常、普遍妥当性の純粋に技術的な最適化である」(Hayek 1942–4: 170)。このような最適化が可能であると考えること自体が幻想である。なぜなら、この考え方は、どんな特定の個人でも知識には限界がありうるという事実を認識できていないからである。社会工学者というものは、社会主義的計画の全体を下支えすることのできる知識という幻想の犠牲者なのである。
工学的技術の全社会への適用は、社会工学者が彼自身の一定範囲内の世界についてもっている知識の完全さに引けを取らない程度に、経済の監督者たちが社会全体について完全な知識を持つことを要求する。集権的計画経済とは、全ての関連知識の完全収集が可能であるという仮定に基づいた、工学的原理の社会全体への適用以外の何物でもない。
(Hayek 1942–4: 173)
 
ノイラートの実物計算への確信は、ハイエクがその否定に力を注いでいた完全なる知識の可能性へのコミットメントに対する熱中そのものであると受け取られたのである。