理論と実践 | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

 
 
 
Marx批判家の中には、理論が人間の行動に及ぼす力を殆ど絶対的なものと見なしている方がおられます。これには違和感を抱かざるを得ません。
 
“「理論→実践」ゆえに「正しい理論→正しい実践」、「間違った理論→間違った実践」”という理解は、少なくとも一面的です。「間違った理論」とその帰結については、とりあえず問題なしとしていいと思いますが、「正しい理論」については非常に短絡的なとらえ方だといわざるを得ません。なぜなら、「正しい理論→正しい解釈→正しい適用(必要に応じた修正)→正しい実践」というのが実際だからです。
 
それだけではありません。そもそも「理論→実践」という出発点からして相当に怪しいのです。本当に人間は理論から出発したりするのでしょうか?本当は、「はじめに行為ありき」なのではないでしょうか?理論は「ミネルバのふくろう」として後からついて行くものではないのでしょうか?
 
理論は実践の中で生じた様々な困難を解決するために生まれてくるのですから、「理論→実践」とか「理論→実践→理論」というのは実は不正確で、「実践→理論→実践」というのが本当だろうと考えます。「実践」の方が規定的・包摂的契機であって、「理論」のほうは被規定的・派生的契機であろうと言いたいのです。
 
こんなことを今ここで持ち出すのは、「正しい理論→正しい実践」という短絡と一面化こそがスターリン主義の支柱の1つであろうと考えるからです。もちろん、正しい理論のないところに正しい実践が生まれる可能性はほとんどありません(ゼロではないにせよ)。しかし、正しい理論さえ与えられれば、それだけで直ちに正しい実践が実現するわけではありません。
 
解釈と適用に於ける誤りの可能性を無視する点で、「正しい理論→正しい実践」という理解は、一面的との謗りを免れることはできません。驚くべきは、こうしたスターリン主義的一面性が「マルクスがスターリンを生んだ」といってMarxを論難する人々の間にも時折見受けられるという事実です。
 
彼らは、「正しい理論→正しい実践」をそのまま裏返しにして「間違った実践」の背後に「間違った理論→」だけを見ようとします。「正しい理論→間違った解釈→間違った適用→」や「正しい理論→正しい解釈→間違った適用→」という可能性ははじめから否定され無視されてているのです。
 
「実践→正しい(と思える)理論→間違った解釈→間違った適用→間違った実践→再解釈→再適用→正しい実践→(以上の経験の総括としての)より正しい理論(→みたび解釈と適用へ)」、これが実際のプロセスでしょう。既存の理論から選択するにせよ、新にオリジナルの理論を構築するにせよ、人は誰しも、自分の生活実践、生活経験に照らして理論を選択・構築、採用し、自分の生活実践、生活経験に照らして理論を解釈し適用し実践します。
 
このような理論に対する人間主体の能動的な働きかけ、しかし、社会的な環境に客体的に規定された働きかけを無視して理論それ自体の正誤を論じても無意味です。特に社会科学の場合、その理論は、これを採用し実践に適用しようとする人が、それぞれ自分のおかれた客観的な条件のもとで、独自の解釈を施し独自の修正を加えていくものです。
 
ある理論の原型そのものと、後世の人たちがその理論に加えた解釈・修正とは厳密に区別される必要があります。そうでないと、原型そのものに誤りがあってもそれを精確に突き止めることができないからです。両方に誤りがあるにしても、その誤りは当然別のものである可能性が高いからです。原型そのものについて、どこが正しくどこば間違っているか、これを明らかにするためにも、解釈の整合性と根拠を問うことは不可欠の作業であるといわざるを得ません。
 
人々が理論を彼自身の客体的な存在条件に規定されてどのように解釈・修正していくか、これを検討することは、それ自体がMarx理論の正しいかどうかの検証となるでしょう。スターリニストは、スターリニスト自身の生活上の必要から、Marx理論に独自の解釈・修正を加えるのです。彼らの存在条件と彼らの理論との必然的な関連が把握されるとき、存在と意識についてのMarx理論に正しい面があることが証明されます。
 
国家資本主義という彼らの生活環境から、国家資本主義を正当化する手段として、Marx理論の歪められた解釈が生まれるのです。原型の理論そのものが正しいかどうかとは直接には関係のない場合も珍しくないのです。スターリニスト理論の源泉は、先行学説だけにあるわけではない、むしろ彼らが身を置くところの生活環境、彼らの存在条件こそがもっとも強い規定力を持つのだと僕は考えています。
 
“どうもはじめから、Marxが正しいものと決めてかかっているのではないか”、という批判には半ばYESで半ばはNOだと答えておきましょう。いや、かつてはYES、今はNOの方がより精確でしょうか。すでに述べたように人がある理論を検討対象として取り上げるとき、そこではすでに自分の経験に照らして、その理論の正しさについてある程度の判断がなされているはずです。
 
だから僕がMarxに興味を持ったとき、僕は、既に、絶対に正しいと決め付けたわけではないにしろ、これは正しいかもしれないという期待をもったことは間違いありません。そして、このような期待をもったことについては、とやかく非難される謂れはないと思います。誰でも、期待できる対象を取り上げるほかないはずだからです。
 
もし、何の期待も持てない対象を取り上げて検討を加えている人があるなら、その人はよほど時間的な余裕と辛抱強さに恵まれた人です。この人の努力から意外な発見が生まれる可能性は大いにあります。しかし、たいていの人間はそれほど暇ではないし、脳天気でいられるわけでもないのです。確度が高いと判断した対象から選択することになるでしょう。
 
問われるべきは、最初に抱いた期待の当否をちゃんと検討したかどうかでしょう。自分の生活実践、生活経験と照らして、選択した理論に検証を加えたかどうかです。僕の場合は、もちろん、YESです。
 
Marx理論の中で、Marx自身がもっとも整備することができた分野といえば、それは資本主義分析です。僕は、彼の分析が僕自身の生活経験と照らして、十分検証に耐え得るものであること(瑕疵や欠落は多々あるにせよ)を自分なりに確認しています。
 
 
最初は、「決め付け(というより「期待」)」でしたが、いつまでもそのままにしてあるわけではありません。
 
  前回投稿:2010/8/15(日) 午前 11:04
 
【再録に当たり加筆】いわゆる「現存社会主義」の場合は、結果的な誤解釈ではなく、意図的な修正・歪曲であると考えています。理論的な誤りと意図的な理論の改ざんとを区別することは、「現存社会主義」の成立要因を把握するうえで極めて重要な事柄です。この区別を無視するような議論は全く無意味、不毛です。