東洋的専制主義の経済的構造 | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

 
 
《すべての労働生産物、力能および活動の私的交換は、諸個人相互間の上位下位の位階的秩序(自然的な、または政治的な)のうえにうちたてられた配分とは対立している…中略…とともに、生産手段の共同的な占有と統制の基礎のうえに協働結合して〔associrt〕いる諸個人の自由な交換とも対立している。》(『経済学批判要綱』S.91-92)
 
ここから、労働生産物と労働力・活動の社会的配分や交換の様式として3つのパターンを読み取ることができる。
 
1)私的交換/2)位階的秩序の上に打ち立てられた配分/3)アソツィーァト(アソシエート)している諸個人の自由な交換
 
このうち、「位階的秩序の上にうちたてられた配分」についてもう少し具体的なイメージをつかみたい。そのためには、同じ『経済学批判要綱』の以下の叙述が参考になるだろう。
 
《この形態(自然性的な部族共同集団)は、同一の基本関係がその根底にありながら、きわめて様々なしかたで自己を実現しうる。例えば、たいていのアジア的基本形態においてそうであるように、これらのすべての小さな共同体組織の上に立つ総括的な統一体が、上位の所有者として、または、唯一の所有者としてあらわれ、したがって現実の諸共同体は、世襲的な占有者としてしか現れない、という場合でもこの形態とは決して矛盾しない。》(S.380)
 
土地をはじめとする非有機的自然に対して、それらが自己自身のものであるという様態で現実にそれらに日々実践的に働きかけてているのは、たしかに小共同体や小共同体の成員諸個人ではある。しかし、この場合、注意を要するのは彼らがそのようにふるまえるのは、ただ、上位の共同体に包摂されている限りであって、小共同体自体や諸個人自体には、そのような資格はないという事実である。
 
《東洋的専制主義の、あるいは法的にはそこに存在するように見える所有欠如の真っただ中に、実際には、こうした部族所有または共同体所有が、基礎として存在しているのである。この所有はたいていの場合、小共同体内部の製造業と農業との結合によって生み出されるのであって、その結果この小共同体は完全に自給自足的なものとなり、再生産及び剰余生産の一切の条件を自己自身の中に持っている。この小共同体の剰余労働の一部は、最終的には人格として存在する、上位の共同体集団に帰属する。この剰余労働は、貢納等々の形で表れてくることもあれば、統一体の賛美のため――一つには現実の専制君主の賛美のため、一つには想像上の部族本体である神の賛美のため――の共同労働という形で表れてくることもある。》
 
とはいえ、諸々の小共同体やその成員たちの上位の共同体に対する関係は、それ自体としては「観念的」なものである。なぜなら、現実の小共同体およびその成員の再生産は、小共同体自身によって自給自足的に行われるからである。そして、それゆえにこそ、各小共同体の再生産を全体として保護する上位の共同体に対する小共同体の関係は、剰余労働やその生産物の貢納を通じて再生産されなければならないのである。
 
祭祀等の準備と挙行のための賦役労働(祭祀のための施設、モニュメントの建設を含む)や、経済的意味だけでなく、儀礼的文化的意味合いの強い貢納など、これがここで言われている小共同体の剰余労働の発現形態である。
 
こうして小共同体から恭しく差し出された剰余生産物や剰余労働をもって今度は逆に上位共同体が下位の諸共同体に種々の施しをする場合もある。
 
それは社会的な共同生産・消費手段(農業・生活用水のための灌漑施設、災害戦争等に備えての食糧備蓄など)の提供であることもあれば、個々の小共同体への特別の施しであることもあるだろう。
 
これが、「位階的秩序のうえにうちたてられた配分」のいくらか具体的な内容である。

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