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 時間指定しておくと書いた記事を自動的にupしてくれるという、「ネタはあるし、記事にもできてるけれど、生活習慣を考えると毎日更新はきついなぁ」という人向けではなかろうか、と思われるシステム。あら、お買い得ね、と誰かがいったかいわないかはさておき、とても便利なものだと思います。読む側としても、何時に更新されるか分かっていれば、時間の節約もできるのではないでしょうか。いや、いつ更新されるか分からないドキドキワクワクがたまらないっ、という方もおられるかも知れませぬが。


 さてはて、公開予約からちょいと話を広げてみましょう。このシステムと類似したものを思い浮かべて見ますと、ネズミーランドのアトラクション予約券みたいなのがこれとかなり近いシステムではないでしょうか。違うのは人数制限があるのと、お客さん側がある程度時間を決められるというところでしょうか。手に入れられる券の数の上限はあったような気がしますが、券をとっといてその時間に行かない(券を利用しない)というのもルール的には問題がなかったはずなので、自由度という点ではとてもよいものだと思います。しかし、公開予約と予約券というのは対比対象を間違っている気がしないでもないですが、広がった部分として気楽に読み流してくださいー。

 次に電車の発着時刻、これも似たような傾向があります。ためしにup時刻を(upしない場合もあります)決めると、もう、それを参考にするかしないかは読者さんしだいですが、提供する側としては、この時間だよー、と事前に提供時間みたいなものを決めてしまっている点では同じですー。主に違う点をあげるならば記事は残るものである、ということでしょうか。

 ただ、こう比較していますが、発着時刻や予約券との一番の違いは形のある対価に見合わせたサービスであるか否かであるような気がします。ブログというか個人のwebサイト、それにとどまらず2chの掲示板群なども基本的には無料であり、送り手側も受けて側も時間や精神の消費はしても金銭などといったものは消費しません。ゆえに責任なんてものは実にうやむやなものですし、元々自由を求めている風潮が強い割には、精神や時間をある一定量、ネットに割り振ることがひとつの責任のようにとられている節もあります。道具にすぎないネットも使う人によっては凶器にもなったりー。


 そういえば一時期「自己責任」という無茶苦茶な言葉がはやった気がしますが、あれって定着したのですか?webにおける自由と責任なんてナンセンスなことももしかしたら面白いことなのかも知れませんね。下世話な部分って、ほら、魅惑でもあるのでしょうし。

 と最終的にかなーり違う方向にいってしまいましたが、サービスだから、とか、義務感から更新時間を決めたわけではないのですよ、更新されないときは決められた時間の直後に来られても、当然新着記事はありませんしね。面白そうだと思ったから、そして楽できそう(←これが一番でかい)と思ったから、やってみよう、というだけのことに過ぎないわけです。と無理やり話題を戻して終わり~。

12 注・斜体箇所は引用した文です。

・女というもの/可憐な目

はじめて男を識った女の目は可憐だ。

――合わせ鏡――


/愛する女の眼

愛する男に向けた女のまなざしは、常に単純にして明快である。

――恋の巣――


 女性の一途さと読めばいいでしょうか。前回と逆に近い題材になりますね。立原小説の理想像的な女性というのは本能的な欲はあっても、世俗的な欲、思惑といったものから遠い存在として登場します。今回取り上げた文はまさしくそういった女性、または一時的にでもそこから離れた女性を指すものです。


 ここでちょっと脱線。女性が一途であればあるほど、そして、その一途さに余分なものが含まれていないとなると、よっぽどの男性でなければ「耐え難い」のではないだろうか、と私は思います。それゆえ、というのも変ですが、氏の小説で理想像的な一対の男女という組み合わせはなるべくしてなったものとして描かれるのも実は無理からぬことでもあるのです。逆に片方が理想像的ではない場合、氏の小説ではことごとく別れたり、それ以前に歯牙にもかけないといった感じになったり。


 今回のふたつは、氏のいうところの美しいものに類すると思います。前者が一時のものであり、後者がともすれば変わってしまうものであるということを除けば、共通して女の本能の美しい例として捉えられるのではないでしょーか。ただ、今回は触れませぬが、ここに至る過程や条件はまたちょっと考えさせられるものがありますが、それもまた追々、何かの折に触れていきたいと思いますですよ。

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 立原正秋の小説をはじめて目にしたのは高校生のころだった。高校進学自体に懐疑的だった私は、やはりというかなんというか不良とまではいかないまでも不真面目な学生であっただろう。それでも親の手前、そうそうさぼってもいられない、と学校にはいくもののどうしてもつまらない。長い長い授業時間を有意義に潰すために趣味であった読書(中学からライトノベルを読んでいた)の幅を広げ、一般的な小説に手を出し始めてすこしたち、図書室で、そう、おそらくは「春の鐘」であった。それが氏の著書とのはじめての出会いであった。

 それから、これも元々の趣味であった古本屋巡りの度にけして多くはない小遣いで氏の本を買っていった。「冬の旅」は学生だった私の心を非常に揺さぶった。それ以外の著書も拒絶するところ一切なく、いってしまえば傾倒していったのだ。


 立原正秋がすでに故人であることを知ったのもまた高校のころであり、いま手元にある著書の半分も読んでいなかったころだったろうから、間抜けではあったが、この時もまた少なからぬ衝撃をうけたのを覚えている。若かりし頃特有の現象であるといまならいえるが、それでも恥ずかしいことだとは思わない。氏の作品を衝撃をうけてなお読み続けたのは氏がいないということへの悲しみからではない。一冊一冊の本を本当に面白く感じ、また、小説というものは著者がいなくなってなおその存在を認めることのできるものであり、立原正秋の小説は著者が歿してもなお、私と間然とする所がないほどに呼応したのだ。


 このブログをはじめて、氏の著書でしか知りえなかった領域に覚悟の足りぬ様で踏み入れようとしていたことに気づいた。いや、気づかされたというべきだろう。自身の甘さは認めるところであるが、それでもまだ私は私自身に対し甘いのだ。それを克服していかない限りは、何処かでまた逃げてしまうに違いない。

10 注・斜体箇所は引用した文です。

・女というもの/女というもの(5)

女というものは男にくらべ生活にたいする考え方が堅実である。

――残りの雪――


/女というもの(6)

――女って動物はまったく打算的にできているよ。

――セールスマン・津田順一――


 男からみた女という図式がはっきり読んで取れます。ちなみに(5)と(6)では同じことを言っているようでちょっと違います~。短くいうと似て非なるものですー。といいつつ自信はありません(笑。手元に該当著書はあるのですが、いまから該当箇所を探すのはちょっと嫌かなぁ、という駄目駄目な言い訳をしつつ、解説もどきいきます。


 (5)は、いわば女性の性質をただ単に表現したのと違い、(6)では辛辣に突き放しています。ちなみに立原は女性の性質というか本質を頭から否定する旨の文を(私の知る限り)書いていませんでしたし、いままで読んできたのを思い返しても、女という性に対して厳しくも優しい態度を示していたように思えます。ちょっと話は逸れますが、立原はその作風からか女性の愛読者が非常に多かったそうです。

 立原の嫌悪の対象は特に醜いもの、卑しいものに向けられる傾向がありますが、その醜さ、卑しさの定義は一般的な常識とはちょっとずれるところがあります。氏独特の、いわば審美眼によるものともいえますが、それよりは、私たちが普段いかに知らず知らずのうちに偏見を身につけてしまっているか、というのが問題なような気がします。

 立原の小説では理想像を具現化したような男女が登場することは前に書いたかも知れませんが、それとまったく対照的な男女もまたよく登場します。理想像的な男女が古風な日本人の良さを軸にしているのに対し、その逆の男女は大東亜戦争以後の資本主義に染まった近代の日本人、つまり昔の日本の良さを捨ててしまった形を成しています。そこから顧みるに、(5)は前者、(6)は後者と読めなくもないわけで、そこが似て非なる、になるわけです。


 立原正秋は古い日本の美しさを肯定し、近代の日本の中身の無さを非難とも取れる形で批判していました。ただ、小説という形に昇華し、後世に残されたのがいまにおいて評価されないのは、やはり、いまの日本では受け入れ難いものだからなのかも知れません。

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 えーと、確か心理学用語だっかな。「パーソナルスペース」とは他人と自分との距離、どれくらい近いと不快と感じるかがポイントで、不快と感じない距離を円状?に描いた内側が「自分の領域」みたいなものになるわけです。とか適当に。


 現実、俗にweb上ではオフとかいいますけれど、オフでの人間関係に疲れた人が適度に気楽な人間関係をネット上(web上、オンライン)に求めたり、逆にオフでは孤立しがちな人がオンラインでは、その点を隠したりぼかしたりして深めの関係を求めたりします。んでも、結局は人と人となわけでして、そーんな都合よくいっちゃうわけは、まずないのですよ。オンだろうがオフだろうが自分の望む距離と相手の望む距離が合致する相手なんてそうそういやしないのです。まれにオールオッケーな奴もいるけれどね。


 そんな時、お互いの望む距離が合わない時、あなたなーらどうするー?とか冗談はさておき、人は単純にいえば不快になります。不快を心理的圧迫とか社会的ストレッサーとかいいますがー、ぶっちゃけ嫌な気分で十分ですよね。嫌な気分になったとき人はある行動を取ります。えーと、思い出せる限り列挙してみますと、「逃げる」「諦める」「立ち向かう」「攻撃する」「受け入れる」こんな感じー。ちなみに私は「逃げる」と「諦める」が多いです(笑。


 んでですね。オンラインの人間関係ってのは現実と違ってキリってものが難しいものなのですよ。摩擦や衝突や誤解とか、ストレスがそのまま野放しになってやり場がなくなることも多々あります~。それを避けよう、避けたいと思う方ー。います?いたりします?答えは簡単です。「オンラインに手を出さない」これに尽きます~。どれだけ当たらず触らずしたところで自分のパーソナルスペースが移動しないだけで相手のパーソナルスペースは勝手に移動してきますからね。


 当たらず触らずというネットの利用の仕方もあるのですが、今回は横にポーンっと置いておきました。新しいコミュニケーションツールとしてネットは、実は非常に人間的な問題を解決してはくれないのだということは覚えておいて損はないかと思いますよー。


 ちなみに、自分の都合の良い関係を構築したいが為にオンラインを利用するのも別に悪いことではないと思います。が、結局はネットなんざ道具にすぎないわけで、わざわざ好き好んで道具を使ってるわけですから、ちょいと人間関係を意識しつつ新たな境地に踏み出してみるのも一興ではないでしょーか。


追記・パーソナルスペースについては専門的な確かな扱いをしていないので注意してくださいませ。

8 注・斜体箇所は引用です。

1・著書の発表順を調べ整理するー。2・氏の年譜を調べ整理するー。

 ってのをちまちまやっていきたいと思いますですよ。発表順についてはなぜーか見つからないわけで、ネット&手元の著書で頑張って埋めていく予定。年譜についてはこちら↓(一応 h を抜いてあります)

ttp://www.coherence.co.jp/binonagori.html

を参考にさせていただこうかなと。


 あーうー、ところであれですか、立原正秋ってそんなマイナーなものですか。とか軽ーく鬱々としちゃうくらいに資料がめっからないのは私がしがない一愛読者に過ぎなかったりするからですか。とかぶつくさいいつつ、web巡りー。氏の生い立ちについて語られている自伝(的?)小説「冬のかたみに」で読む限りでは、氏は朝鮮生まれの混血児のはずなのですが、調べているうちに自信がなくなってきたり。マニアとかオタクとか専門家とか研究家とかそういったレベルでない分、びみょーに卑屈になってるやうな気がします。


 んで、混血とか国籍云々について、氏は朝鮮生まれの(国籍はたぶん韓国になるのかな?)混血児、これはハーフだったかクオーターだったかちと自信ないです。最終的に帰化して日本国籍を得、立原正秋という作家名を本名にしたはずなのですが、アメーバブログで検索かけてみたところ以下の文が目に入って呻いたり。


立原正秋の永遠のテーマは「情念」だったようですが、日本人ではなかった彼が描いている日本の情念。これこそ本物です。(立原氏は日本人と韓国人の混血と公表していたが、実際は純血の韓国人)
引用元・読書感情文(敬称略)

本はねえ。。。。韓国人の作家のものって読んだことがなかった。

「白夜」くらいかしら。あとは「親日派のための弁明」(キム・ワンソプ)

という本がお勧め。まだ読みかけだけど。

日本人だと、初期の五木寛之、立原正秋、米原万里が好きです。

引用元・徒然LBH日記(敬称略)


 初トラックバックだけれどミスってませんように。実はこうこう、って情報元を洗い直ししたりしなければならなかったりで案外と厄介だったりします。ちなみに氏は日本人よりも日本人らしい(とか書くと失礼かもしれませんが私の語彙ではこれが一番的確な表現なわけで)最終的には日本人なはずなので、日本人作家と素直に呼べないもどかしさがあったりと、なんともコメントに困る事態。ともかく、手元にある情報の洗い直しは必須になりそうですよ。

 氏の作品では韓国(朝鮮)国籍の混血の兄弟、主に弟が主役の作品がありますが、氏の著書の中では珍しい部類に入るのです。そこをどうとるか、作者の考察に直接には関係ないのかも知れませんが、追々考察していきたいと思いますー。

7

 携帯にカメラがつきはじめたのって何年くらい前だったでしょうか。まず使える色の数が増え、やがて歌メロなんだかができるようになり、と多機能化を続けてきた携帯ですが、カメラ機能なんてろくすっぽ使ってこなかったりします。

 だから、ブログをはじめて特に意味はないけれど画像を添付しつつー、とかしてると、あっというまにストックがなくなったり(笑。出かける際に何かええもんないかなー、ときょろきょろしてる姿は傍から見たら不審者ではなかろうか、と思いつつ。

 手順としては、撮る→メールに添付してPC→画像ファイルにコピー→ブログに用意されている所にupロード→記事を書く際に~、と面倒くさいことこのうえないわけです。ちなみに携帯は使えなくなる寸前か使えなくなってからでしか変えない私ですから、カメラ機能を使うとバッテリー表示があっというまに残1になりますし、当然画質も微妙なわけですが、それでもまぁ、楽しめるっちゃ楽しめるものなのですよねぇ。


 ところで、携帯に求めることって、そんな多いものでしょうか?私個人の要望としては、バッテリーがもつこと、メール機能が使えること、マナーモードがあること、この三つに基本的な通話、伝言(留守番)機能がついていれば文句はなく、社会的な必要分を足したとしても、web閲覧が微妙なところのような気がします。ちなみに随時マナーモード、着信なんて基本設定のままですし、ボタンを押すとき音がなるなんて邪魔でしかないと思って切ってたりします。あー、でも、電卓やメモ、着信発信履歴やアドレス帳、それと目覚まし機能と案外と使ってはいたりしますね。と今更確認してみたり。でも、自分が必要とする機能を足したり減らしたりできたら助かるのだけれどなぁ。

 んでんで、買った当初からパスワードが設定されていて一部の機能とかが使用不可能なのですが、これってどうなんでしょ?それでも全く弊害がないってのは更にどうなんでしょ(笑。

6 注・斜体になっている箇所は引用したものです。

1・女というもの/女というもの(2)

「あとで後悔する、と判っていながらも、女は行動にでることがあるものよ」

――漆の花――

/女というもの(3)

 世の中でいちばんききわけの悪いのは女である。

――心のふるさとをゆく――

/女というもの(4)

 男から、若くみえるね、と言われてよろこんでいる女がいるとしたら、この女はまちがいなく馬鹿である。若くみえるのであり、若いわけではない。

――愛をめぐる人生論――


 えー、またもやどこかからクレームがきそうな内容になりますね(笑。こういった内容を理解しない、できないのは問題ではなく、むやみに反感を覚えるのその心根が問題なわけですが、どうなんでしょ。

「愛と人生の風景」より1で、「~~動物だ」と〆られている一文を挙げましたが、そのものを表しているのが(2)であり、それが悪く転じた時が(3)と(4)であると読んでそう間違いはないでしょう。前回も触れましたが、立原は「醜さ」というものに対して非常に容赦のない描写をします。立原小説では理想像に近い男女、ちょっと現実離れしてるくらいに良く出来た男女が作中登場します。理想像に近しい男が、女の登場人物(こちらは普通だったり色々とパターンが分かれます)に女の醜さを説き、君はそうならないように、とか、濡れ雑巾のようになってしまったね、などと、えげつない事を言う場面が間々あります。

 ちょっと動物な観点からコメントしてみましょうかー。(2)なのですが、ちと既読か思い出せなかったりしますが、これは間違いなく女性の、しかも行動を起こした後、その行動に関わったor知っている人物のセリフかと。身ひとつで飛び込んでいく姿は非常に動物的であるように思います。立原小説では、女性が破滅的な性に飛び込んでいく姿が間々みられますが、ただ単に堕落の場合もあれば解放な場合もありますー。

 (3)は、これは単純に評しただけととっても問題はないですが、あえて違う解釈をするならば、世から離れたところに女の自由奔放さがあるとも読めます。

 (4)は、もう、苦笑いするしかないのですが(苦笑。


 えーと、ちなみに小生、♂でして、それなりに女性とお付き合いしてきたこともありますが、(1)と(2)は共感したりするところ。社会通念では量りきれないものが女性にはあると思うのですよ?

5 注意・斜体になっている箇所は引用です。


 立原小説では幾何学を身につけている人物が間々登場します。 幾何について、頭を明晰にする、感情の入る余地がない、 といった感じの表現をしていた記憶していますが、 それを体現した人物が登場するのも立原小説の特徴だったりします。
 白い罌粟では、主要登場人物の串田次郎がそれにあたります。 web検索をかけたところ、 金融業、ニヒリストと紹介されていますが、読む限りでは自由業や無職に類すると思います。ニヒリストとは虚無主義者という意味で、元のニヒリズムとはあらゆる制度を認めない思想と手元の辞書では書いてありますが、串田次郎のやっていることは、制度を逆手に取って利益を得る行為になりますし、思想的にも制度に対し何らかの感情を抱いているようには思えず、微妙に異なるかと思います。

 では、どう例えればいいのか、という段になりますと、最初の幾何に戻ってくるのです。それに該当するであろうところをちょちょいと引用しますと。


 串田次郎を主人公の寺石修に紹介した三木が、串田の目に気づかなかったかな?と話を振る場面。

「いや、それなんだがね、あれは、なんだろうね、冷たいというのか、感情のない目というのか、動じない目だな」


 寺石と串田次郎の会話。

「お仕事はなにをしていらっしゃるんですか?」

「なにもしておりません」

 串田次郎の態度や言動全てが、ある一定の法則に従っていて、そこには常人の思う、そこにいたるまでの理由や訳は一切描かれていません。そもそもの話の流れが、町の金貸しからルールの矛盾をついて合法的に金を巻き上げるという、ちょっと普通では考えられない行為が軸になって進んでいきます。

 ちなみに、幾何が出てないじゃないか、と思われた方、鋭いです。幾何という表現は立原小説全般から串田次郎と似通った傾向を持つ登場人物を示す時に的確に表現できるものであり、白い罌粟でも言葉は違うけれど同じ旨の記述があります。以下は猟銃で射撃をしていた串田次郎が猫を撃った後の寺石の心理描写。

彼は、串田が猫を射撃した行為を、ひとつの方程式のようなものだと思った。猫が方程式の軌道に入って来たに過ぎない、もしあのとき猫が照準点からほんのすこし逸れた場所を通っていたら、この男は自分の方程式にしたがって木製の標的を討ちぬいていただろう、何故なら、この男ははじめから銃の位置を変えなかったのだから、と寺石は考えた。

 この他にも物語の根幹に触れる部分での数学的、幾何的なところを思わせる記述がありますが、それは読んだ方とこれから読む方のお楽しみだと思うので割愛~。


 正義感等といった人間らしい感情を排した存在が串田次郎、 彼につまずいていく主人公寺石をはじめとする普通の人々という図式が白い罌粟なのです。 ポイントは方程式をもてあそんでるのではなく、方程式を体現しているというところでしょう、と強引にまとめ。

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 2chを利用している中で数百人もいないと思われる立原ファンの皆様ハロー。asqです。


 えぇ、いままで何度か検索かけてきましたが目ぼしい板に「立原正秋」に関するスレッドはありませんでした。文学板に一般書籍板にハングル版、どれかにはいつか立つかな~、と生ぬるく待ってたわけですがいつまで経っても立たないわけで、たたない事に憤慨する思想家やお姉さまではありませんが立ててきました文学板。

 あってもいいよね。とか思うのですが実際どうかは分かりません。てか文学板でベストかも分かりません。いやだって、立原正秋を語り合えるところが欲しかったんです。というすさまじく個人的な理由が一番でかい気がします結局のところ。