立原正秋の小説をはじめて目にしたのは高校生のころだった。高校進学自体に懐疑的だった私は、やはりというかなんというか不良とまではいかないまでも不真面目な学生であっただろう。それでも親の手前、そうそうさぼってもいられない、と学校にはいくもののどうしてもつまらない。長い長い授業時間を有意義に潰すために趣味であった読書(中学からライトノベルを読んでいた)の幅を広げ、一般的な小説に手を出し始めてすこしたち、図書室で、そう、おそらくは「春の鐘」であった。それが氏の著書とのはじめての出会いであった。
それから、これも元々の趣味であった古本屋巡りの度にけして多くはない小遣いで氏の本を買っていった。「冬の旅」は学生だった私の心を非常に揺さぶった。それ以外の著書も拒絶するところ一切なく、いってしまえば傾倒していったのだ。
立原正秋がすでに故人であることを知ったのもまた高校のころであり、いま手元にある著書の半分も読んでいなかったころだったろうから、間抜けではあったが、この時もまた少なからぬ衝撃をうけたのを覚えている。若かりし頃特有の現象であるといまならいえるが、それでも恥ずかしいことだとは思わない。氏の作品を衝撃をうけてなお読み続けたのは氏がいないということへの悲しみからではない。一冊一冊の本を本当に面白く感じ、また、小説というものは著者がいなくなってなおその存在を認めることのできるものであり、立原正秋の小説は著者が歿してもなお、私と間然とする所がないほどに呼応したのだ。
このブログをはじめて、氏の著書でしか知りえなかった領域に覚悟の足りぬ様で踏み入れようとしていたことに気づいた。いや、気づかされたというべきだろう。自身の甘さは認めるところであるが、それでもまだ私は私自身に対し甘いのだ。それを克服していかない限りは、何処かでまた逃げてしまうに違いない。
