23

注・この年譜は新潮文庫の「愛と人生の風景」の年譜を元に作成してあります。


1967

「恋の巣」四月に刊行

短篇集「合わせ鏡」七月に刊行

短篇集「薔薇屋敷」七月に刊行

「海岸道路」九月に刊行

「花のいのち」十月に刊行

短篇集「辻ヶ花」十二月に刊行

1968

「剣と花」四月に刊行

「美しい城」四月に刊行

「ながい午後」八月に刊行

「春のいそぎ」八月に刊行

短篇集「永い夜」十一月に刊行

短篇集「他人の自由」十二月に刊行

1969

短篇集「雪のなか」二月に刊行

「心のふるさとをゆく」五月に刊行

「女の部屋」六月に刊行

短篇集「夢のあと」八月に刊行

「冬の旅」(上・下)九月に刊行

1970

「あだし野」三月に刊行

「去年の梅」七月に刊行

「血と砂」八月に刊行

「夏の光」十月に刊行

22

注・この年譜は新潮文庫の「愛と人生の風景」の年譜を元に作成してあります。


1951

「晩夏」<文学者>十月号に発表

1956

「セールスマン・津田順一」<近代文学>八、九月号に発表

1958

「他人の自由」<群像>十二月号に発表

1961

「愛する人達」<群像>六月号に発表

「海と三つの短編」<文学界>六月号に発表

「赤煉瓦の家」<文学界>八月号に発表

「嫉妬」<文学界>十月号に発表

1962

「四月の雨」<文学界>三月号に発表

1963

「波」<文学界>八月号に発表

「美しい村」<近代文学>九月号に発表

1964

「薪能」<新潮>五月号に発表

短篇集「薪能」九月に刊行

1965

「恋人たち」一月に刊行

「剣ヶ崎」<新潮>四月号に発表

短篇集「剣ヶ崎」八月に刊行

「漆の花」<別冊文藝春秋>九十三号(九月)に発表

「白い罌粟」<別冊文藝春秋>九十四号(十二月)に発表

1966

短篇集「漆の花」三月に刊行

「鎌倉婦人」六月に刊行

短篇集「美しい村」九月に刊行

21 注・斜体箇所は引用文だす。

 えーと、私はネットを、ロム、情報収集、blog、詩、メール、の用途で使っています。頻度もだいたいこの並び順です。昔はネットゲームもやっておりました。ちなみに情報収集とメール以外は全くの趣味的利用ですね。ネットで実益を得ようとはあまり思わないなぁ。


 んでんで、ニートについて。定義は「はてなダイアリー」を参照していただけると良いかも。

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CB%A1%BC%A5%C8


 で、本日のトラックバックさせていただくところでは、ニートがなぜこれほどまでに増えたかの一般的に考えられている要因を幾つか述べられ、こう締められています。


  どれも本当でしょう、要因はいくつもあるものですから。ですが、見落としている要因もあるのではないか、と私・浅路 は考えています。引きこもりの問題とも関わりがあると考えていますので、この問題をしばらく取り上げ、述べてまいりたいと思います。

http://ameblo.jp/haruomi-watashi-jibun/entry-10005429921.html#tbox

上記引用元「自分学Blog」(敬称略)



 んー、要因がひとつだけでないことは確かでしょう。ところで、読者諸兄は「月の錯視」というものをご存知でしょうか?



上空にある月よりも、水平線に近い月の方が大きく見えるという日常的に体験する錯視。水平線上の月の方が遠くにあると見てしまうことによる。

http://www.nobi.or.jp/i/illusion/experience/moon.html

上記引用元「総合情報サービス I-NOBI WORLD」(敬称略)



 錯視というのは、だいたいがその理由、どうしてそのような錯覚が起るのか、が判明していますが、月の錯視というものは有力な説はあれど、これだ!というものがいまだ定まっていない錯視です。解明できたらノーベル賞ものでしょう。おそらく複合説もあるでしょうけれど、それも判明するまでの命です。どのような謎や問題も、分からないからこそ価値があり、わかってしまえば問題や謎の価値は定まってしまいます。

 ちなみに、ニートに限らず、いじめや人種差別、その他もろもろの社会問題というのは何も日本に限ったことではありません。世界各国、いたるところであります。社会問題は月の錯視とは違い、解決しなければいけない問題であり、また時間も限られます。たいした問題でなければ自然解決という方法も考慮にいれられますが、社会問題として取り扱われている以上、おそらくそうはならないでしょう。

 さて、話をひょろんと広げてしまいましたが、ニート自体は特に表面化したものでしかなく、その背景、要因こそが重要なのにはかわりありません。人をどのような公式にかけたら、またはどのうよな説にそったらニートになるのか、これが判明すれば問題の解決はみえてきます。けれど、「ニートはいなくなりました。ただし世界人口も大分減りました」というのも解決のひとつであることを心にとめておくべきでしょう。社会問題というのは解自体が定まらないものでありますから、完全な公式といものが存在しません。事後にベストと評価されてもパーフェクトと評価されることは、まずないのです。

 まぁ、要因が判明したところで、実際にとれる手段なんてものは「焼け石に水でなければよいね」といった程度のものしかとれないのが、いまのホショウ社会日本なのですけれどね。

20 注・斜体箇所は引用文です。

・女の性(さが)/女の別の面

女という皮を剥ぐと、内部にはさらに別の女がいる気がする。それはまったく別の女ではなく、同じ女の別の面である。それは、同じ女の深層の部分である。

――永い夜――


 人はいわゆる立体であり、その造形はまた性別により差異がある。なんかこれだけで十分足りるような、足りないような。てか、これだけ書くと素直に体型、体格のことをいっているように思われそうね。


 もっとも着目するとすれば、「女という皮を剥いでも女は女であるような気がする」というところではないでしょうか。ちょうどよく、画像が料理の下拵え中のものですが、人参やじゃが芋や玉葱っていくら剥こうと別のものにはならないのですよね。まぁ、物理的な話ですので深層はありませぬが。


 女を剥けばまた女あり、されど別の女であり、同じ女の深層である。どういいかえようと、頭が固いと解けない文だろうなぁ、と思う。どんな解釈を与えても良いし、そのまま感覚的に捉えてもよいだろう。断定調に書かれてはいるが、それくらいの余地はあると思う。だから私なりに解釈するとすれば、「女というものは剥いてみなければはじまらない」という甚だ不敬極まりないけれど、それくらいの風狂もまた楽し。とかね。

19 注・斜体箇所は引用文になります。

 えーと、先日は「読書感情文」様の記事にトラックバックさせていただき、そのあとコメントをいただき、あまつさえトラックバックしていただいたのは興味深い経験といってよいのではなかろうか?と素直になれない平日ど真ん中にこんばんは。


 トラックバックというのは、私が感じるところのリンクの一種であるような気がします。ブックマーク(≒お気に入り)や、リンク集というのは一時期、というか周期的に話題になっていますが、リンクフリーやリンクお断りについての論議はちょっと面白いものです。そもそもが情報の均一化、広域共有が売りであるはずのネットで都合よく対象を区切ろう、というのはちょっとすごいことだと思います。ちなみに私は、「リンクフリーでない方がおかしくないかい?」という意見ですが、これも個人運営サイトの話が主体でありますが、一部のコミュニティのためだけのwebpageというのも別に駄目だというのではありません。ただ、対象を事前に区切るのであれば、パスワード制にするなり物理強制によって他者を介入できないようにしておくのが親切というものではないか、と思うのです。自由に見られる(書き込める)のに、リンクはお断り、一昔前でしたら負荷の問題とか物理的なサイトの維持の為にどうしようもない理由がありましたが、いまでもそういった理由というか問題って残っているのでしょうか?そうでないのなら、どのような理由によってリンクを断るのでしょうか?ちょっと気にかかるところです。


 さて、なんかトラックバックしていただいたようで、トラックバックされた記事と先方の記事をのんびりと読んでいて、「ん?この記事で良かったの?」とちょっと気にかかるところがあったのですが、それはスルー。


 どんな人でも本心は「心の底から笑いたい」と願っているはずです。笑えばリラックスできます。リラックスできれば深く味わえ、楽しめて、吸収できます。


 なんとなくですが、宇宙船地球号を思い出しました。あとイマジン。

 想像力は、ある時は人々を豊かで平和で~みたいな良いとされる方向に導いたりしますが、ばっち逆に導く時もあります。どんな人でも、これすごく重要ですよね。この記事はこれだけで完結してないようなので蛇足かもしれませんが、どんな人でも笑いたいと願っていても、全ての人が笑えるわけではなく、そもそも常に笑えるようであれば、笑いなんてものに価値はないのですよ。と、斜に構えた視点ですよ。というか核心ではなく前振りのようなのですこぶる突っ込み辛いやうな気もしていますが。


 トラックバック先の記事を読んでいると比較的近視に感じられる話の展開をなされているやうな気もしなくはないのですが、「自分学blog」(敬称略)心の底から笑える、心のふるさと~バックパッカー~、とのことなので、ふむ、そういうのもありだなぁ、とも思うのです。

 社会的認識というものをあえて排しているのかな。そういった、一見自分探しとは関係ないようなところも大切だと思うのは、もしかしたら私が変だからなのかも、ですね。

18

「残りの冬」を読み返しておりました。一冊の本から何を語るか、これは人によって分かれるところではないでしょうか。ある人は筋書きを、ある人は作者の変遷を、またある人は物語の登場人物への感動を口にするでしょう。一冊の本から語れることは多く、それこそ解説という枠もなければ、無限に広がっていくようなものです。


 さて、氏は男女の性交を「交歓」と書くときがあったように記憶しています。歓を交える、と解釈すればよいでしょうか、性に対し常識的なところからは離れているもの(強姦、不倫等)も鮮やかに描いてしまう立原でありましたが、根本には節度があり、また美しさへの苛烈な希求があり、俗世間に順応した脳にはちょっと重く軋むところがあります。しかし、氏の性交の描写(分かりやすくセックスシーンといったほうがいいのかな)は、そこにだけ目を向ければやはり、非常に美しく、夢絵巻ともよべるのではないだろうかと思わせるほどに、ちょっと良すぎるのです。


「残りの冬」では朝永(工藤)里子と坂西浩平をはじめとし、何組かの男女が出てきますが、里子と坂西の交歓は、世間でいうところの不倫という悪い意味での形を驚くほど感じさせない姿で展開していきます。節度をもって狂うことがより情感を深めていく、理性や秩序は一見すれば枷であり、余計なものでありますが、それこそが欠かしてはならないものなのかもしれません。


 ふと、昨今の性交描写と立原の性交描写の違いとは、昔の家庭料理と今の家庭料理の違いに通じるのではないだろうか、と思いつきました。家庭の仕事が段々と便利に、合理的になっていくなか、手間ひまをかけ、小さな工夫を凝らし、素の味をひきだすという事から離れていってしまったように感じます。

17

「雨降って地かたまる」という有名な、えーと、慣用句でなくて、提言でもなくて、至言でもなくて、んーと、そうそう、格言がありますが、「一波乱あった後の方が前よりよい状態になることがある」という感じでしょうか。んで、波乱とは修羅場とか喧嘩とか、人の世に当てはめればコミュニケーションの齟齬が原因となり喧々諤々したあとに、前よりよい関係を築いちゃったりするって奴なわけですが、個人的には吐き気がする考え方だと思うわけですが、どんなに人間が進化しようと所詮は人間という枠を脱することはなく、理知的なコミュニケーション方法にも限界があるのだ、と指摘されている気分になります。

 ちなみにこの格言の使われそうな例を挙げれば、「痴話喧嘩」「川原でのタイマン」「なんかピンチ」あたりでしょうか。なんかピンチとか書きましたけれど、ドラマとかアニメとか起承転結しないと話にならないものを思い浮かべていただけると幸い。なんか起きて、それがきっかけとなって~、が「雨降って」です。

 そういえばこれは過程がごっそり抜けてますね。まぁ、だからこそ汎用的に使えるのでしょうけれど。起承転結に振り分ければ起決だけですから、なんか事が起きて終わった様を「雨降って地かたまる」としたり顔でいってもオーケーなわけですよ。前と比べてよくなったか、なんて主観バリバリなのは正誤を気にするまでもありません。誤ったところで責任は取りません。


 さて、過程の話です。起と結の間には、人と人との齟齬があります。とか書きました。書いたような気がします。おそらく書いたでしょう。

 齟齬、いざこざ、いさかい、人は独りでも葛藤したりしますし、二人いればなおさら思い通りにいかないことから争いが起こったりします。でもでもあれですよ、あのですね、そんな本気で争ったりってできるものなのですか?「夫婦喧嘩は犬も喰わない」とか、「人の振り見て我が振り直せ」とか、一寸の冷静ないし平静さがあれば、雨降ってなんてのはまったく厄介な天災に他ならないわけですよ。徹頭徹尾争いに傾倒した奴くらいしか良い目をみないような気がします。雨なんて降らなければそれに越したことはないのですー。


 されど、まぁ、色々な理由から雨は降ります。なんか嫌だろうと、降る以上仕方ないってものです。そこで題名にかえりますー。適当に地がなくならない程度に合わせておけば、いつかはかたまるんでない?それにまぁ、むこうからの争いを全部避けるのも無理だし。地がかたまったと思わせとけって。という投げやり気味に〆。

16

 ネットを介したコミュニケーション手段をあげよ、といわれてあなたは幾つ思いつきますでしょうか。メール、チャット、掲示板、今流行りのトラックバックもそのひとつにあげてもいいかも知れません。また、オンラインゲームというのもゲーム内チャットを通したひとつのコミュニケーション手段でしょうし(契約者数を宣伝に使うところもありますしね)、出会い系と呼ばれるサイトも、オフに発展はするもののひとつのネットを介したコミュニケーションといえるでしょう。


 さて、いきなりですが大人ってなんでしょう?大人と一口にいわれてもわかんねーよ、ってのが普通でしょう。ちなみに性別ですとみっつに分けられます。男と女とそれ以外じゃないですよ(笑。生物学的性、精神的性、社会的性、このみっつです。生物学的というのは遺伝子から判別される性別であり、精神的というのは自分が信じている性別であり、社会的性というのは帰属する国家に登録されている性別ないし周囲から思われている性別になります。

 この考え方を当てはめてみると、生物学的大人というのは成立するとして性交渉により子供を作れる可能性を有した時から、つまり男であれば精通、女であれば初経を体験すれば大人であるといってよいかと思います。精神的大人というのは、無茶苦茶ではありますが自分自身を大人だと思って入れば大人ということになります。そして、社会的大人というのは日本人の価値観からみれば二十歳以後であることを基本とし、社会的責任を負い、義務を果たすことのできるもの、というところでしょうか。一昔前までは結婚しているか否かが大きかったですが、それは結婚に伴う社会的義務を果たせるという前提があればこそでありましたし、いまも変わらないところでは国民を増やすことが社会的には歓迎されることであるからでしょう。

 んで、本題に戻ります。ネットを介した個人個人では「大人」という面から解放されることが可能です。大人という縛りは自分自身しか出来ません。そういう構造なんです。生物学的なんて実際に性交渉できるわけじゃないから関係ないですし、精神的に大人だなんて思い込みでも通用しますし、なにより社会的に大人かなんて持ち込んでみたところで餓鬼っぽいとしか思えないわけですよ。


 大人のいない、むしろいようのない、それが人とネットと人、だと思います。個人間、しかもネットに限ってのコミュニケーションの話ではありますが、責任というものは基本的に個人の気概の問題でしかなく、それは当然ながら個人の自由であり、相手に強制されるいわれのあるものではありません。好き勝手に振舞って、それゆえに排斥されようと、それは事実でしょう。ネットを介すせいで人と人という間にオフであれば置かれて然りのものは取り除かれるのです。ですから、相手を肯定するにも拒否するにも、非常に人間臭い、いうなれば餓鬼のような理由でなければおかしいと思うのです。


 道徳的な、それでいて大人チックな付き合いを望むというのは、自分の欲求に従った形にすぎず、相手もそのような形を望んだとして、その意味するところは同じとは限りません。そこら辺の理由を履き違えると結局は自己満足すらも叶わず、ネットを介したことに八つ当たりしてしまうのではないでしょうか。

15 注・斜体箇所は引用した文です。

・女というもの/女の嫉妬

 男の嫉妬は、場合によってはその男の頭の回転をよくするための体操になり得るが、女の嫉妬はそういうわけにはいかない。女の嫉妬は体当たり的なかたちが多い。女が女に嫉妬するかたちは、眺めていてすこぶる醜い。

 一人の女が高価な着物をきて道を歩いている。そこへ別の女が反対側からやってきてすれちがう。このときの、反対側からやってきた女の目を見るがよい。

 まぁ、いい着物をきている、と羨望と嗟嘆のまなざしを向ける女は十人のうち三人いればいい方である。この女達は正直な方である。そして五人は、ねたましげな、意地の悪い目つきで、高価な着物とそれをまとっている女の顔を眺め、いくつかのあらさがしをする。相手の女のあらをさがすことで、いくらか自尊心が癒されるからである。そして残りの二人は、まったく相手を無視して通りすぎてしまう。この二人は、前の八人よりもいちはやく対象を見つけ、瞬時のうちに品定めをし、そして、無視するにこしたことはない、とこれも瞬時に決めてしまうのである。十人のなかでもっとも自尊心のつよい女達である。

――愛をめぐる人生論――


 身に覚えのある方います?(笑。

 立原の物事に対する洞察は一種独特なものがあり、とくに人間の性質については鋭いだけでなく、実に分かりやすい形で表現しています。女の嫉妬と銘打ってありますが、嫉妬するか否か、そして嫉妬の内用によって女の本質はかくも、というとろこでしょうか。

 いうまでもなく、男からして伴侶として最も良いのは「正直な女」です。これは男のわがままともいえますが、遊びや一時の恋であるならば嫉妬する女も可愛いものですが、長く付き合うのであれば女の嫉妬は、たとえ男に向けられなくとも男を疲れさせるものでしかありません。男が鈍感なら別ですがね。



 今日の脱線~。馬鹿、という形容詞がありますが、これが男や女という主語を修飾する場合、主に二通りの意味に分かれます。ひとつは愛すべき馬鹿であり、もうひとつは救いようのない馬鹿です。今回取り上げた文の中の三種類の女達が、このふたつのどこに位置するか、手短な男に聞いてみるのもまた面白いのではないでしょうか。


 嫉妬というものは、するなと言われて、はいしませんといくものでありません。されど、嫉妬の醜さに気づき、嫉妬せぬようにむけることは可能でありましょうし、そういった努力をする女にたいして大抵の男は優しいものです。ちなみに、女の嫉妬を看過する男は情けないか、女にたいして誠実でないということです。自身の嫉妬に気づかぬ女はどうしようもないですが、もし、「嫉妬はやめたほうがよい」と指摘してれる男がいたならちょっと目を向けてみると面白いでしょう。逆に何も言わない男は見限った方がよいかもしれません。ありのままを受け入れてくれる、と喜ぶのもかまいませんが、先にいったように男が女に対し何もいわないというのは、言うこともないほど出来た女である場合をのぞき、良いことなんてのはまずありえないわけですから。

14

 立原正秋は「冬のかたみに」を自伝小説として発表した。これはおそらく事実でしょう。おそらく、というのはたいした資料を手元におかないままに、書いているからです。前に書いたように、氏は自分を日韓の、当時でいうところでは日本と朝鮮との混血と公表していた。これもおそらく事実でしょう。そして、それは嘘であり、純粋な朝鮮人であったことも、また事実なのでしょう。


 私は趣味の範囲で詩や、物語を書いていますが、どんな良くできた作品であろうと、例えそれがノンフィクションとされるものであっても、作品とした時点で嘘なのだと思っています。どのような事実であろうと、私を通したものである以上、事実そのものではありえない。


 小説家高井有一著「立原正秋」で、高井は氏について綿密な調査をし、その上で立原が生前公表していた出生や生い立ちに嘘があることを記したそうです。その心中いかばかりであったろう、と空漠とした気持ちを抱き、いま、手元にその本がないことに片面で悔しがり、また片面では安堵している私がいます。


 外務大臣に麻生氏が就任なされました。いままで喋々喃々としていた特定アジア、中国、韓国、北朝鮮との付き合いが、まず間違いなく見直されることでしょう。このままでは沈むばかりであった日本の現状を考えれば、歓迎するべきでしょうし、事実、少し前の私であれば、これを機に開戦やむなし、と口にしてはばからなかったと思うのです。


 されど、私はいったいどのような者として、何と戦うことを認めるのでしょうか。国籍とは?アイデンティティとは?一度は出した答えがぐらつきだしたのは、間違いなく、立原正秋の嘘を知ったことに起因し。


 立原は戦争は悪だと小説の中で書いていたように記憶しています。どうにもならないままに生きていかれるほどに私たちは高潔でなく、恵まれてもいないのです。国境を境とした向こう側の人々と分かり合い、融和するにはあまりに数多のものが足りず、そしておそらく分かり合えば分かり合うほどに悪は避けようがないのことを知るのです。