引っ越しました。
ホームページは
2011年3月より
http://enami.sakura.ne.jp
に引っ越しました。
ブログは
*2008年11月より
みなさんお手数ですが変更よろしくお願いします。
http://asobibe.blog.shinobi.jp/ です。
*2011 10/1より
↓に引越しました。今までのブログの記事をまとめてみる事が出来ます。
http://asobibe.blog.fc2.com/
皆さん変更のほうよろしくお願いします。
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油絵は描かない
イタリアに行く前と帰国後に何が変わったか?とよく言われる。どこか学校に入って絵を勉強したわけではない。大体絵の道具はスケッチに必要な携帯用の水彩道具しか持ってゆかなかった。
せっかく外国に滞在しているのに学校に行って時間を取られるのはもったいない。考え方のちがいだけれどね。色々と見てまわる事、上手いものをたらふく食うこと、それで出来たらスケッチする事。自分に課したのはそれくらいだ。後は夫婦で旅行ばかりしていた。まぁちょっと長い休暇みたいなものか。
行く前からひょっとすると油絵は描かなくなるかもしれないという予感があった。なぜなら画面の中に他の材料を持ち込みたくても油彩の場合、紙のコラージュぐらいが限界だったからだ。それからその頃に興味を持っていた作家が有元利夫でテンペラとかフレスコなど油彩以前の画材に興味をもっていたからだ。
日本人である私が何故西欧の伝統である油彩画を描くのかという疑問が滞在中にどんどん大きくなってきて、帰ったら水性(ミクストメディア)に挑戦しようそればかり考えていた。
○○スタイル
私が今のスタイルの絵になってから10年ほど経つ。それまではいわゆる油彩画を描いていた。機会があってイタリアに遊んで帰ってきて油彩画から離れた。まがりなりにも何年もやってきたことをスパッと切り捨てる、そんなことが人の転機にはままある。
作家にはその人なりのスタイルというのがある。その形を生むために色々と努力するわけだ。最初は他人のスタイルを真似る。様式は意外に簡単に真似する事ができる。そりゃそうだろう、作家が生きてきた工程を経ないでうわべだけ真似する訳だから簡単な事だ。
私は自分のスタイルをほとんど隠さないで公開している。だから真似しようとおもえばいくらでも可能だ。盗まれる、真似される事は全く怖くない。○○スタイルというのが一般に流布すれば反対に名誉かもしれない。
本当はそこからが大変なのだ。だれのものでもない自分のスタイルを作ってゆくのは一生かけなければできない。
アイディアは自分の中にある。
小説家やシナリオライターなどもそうだと思うのだけれど、ネタを探しているうちは本物にはなれないのじゃないかな。
誰でも一つだけ物語が書ける。それは自分自身を主人公に描けばいいわけで、面白いか否かは別にして真面目に自分の人生を追って行けば、一つの物語はできる。けれどプロになろうと思ったら、それではいけないわけで、何とか物語になりそうなネタを探す事になる。
才能があれば取材して色んな材料を集める事で何本かの作品を物にする事は可能だ。だけども、ネタを探して書いて行くという手法には限界があるのじゃかな。どこかで自分の心を差し出さなければ一遍の詩も書けないようになるのじゃないか。有るものはいつかはなくなる。
アイディアは自分の中にある。
「足跡」と「同行二人」
、 はる 2683
聖書の逸話には詳しくはないのだけれど、時々なるほどなぁと感心することがある。絵の中に何かしらの物語が欲しいと思った時、どこかできいた聖書の話を自分なりにアレンジして絵にすることがある。
それはあくまでも私の感じた聖書の話であって、もっといえばキリスト教という特定の教義の話でもない。仏教や道教、それから日本の土着の道祖神信仰とか、眉唾ものの陰陽師や占い師の教義が入っているかもしれない。それはそれで私の作り話だから面白いのじゃないか。
日本は考え方によれば、シルクロードの東の最果て国であり、ありとあらゆる文明の流れ着く、ごった煮文化の国ということも出来る。いいか悪いかは別にして、これほど柔軟な発想といろんな国のいいところを吸収できるアメーバーのような国は他にないようなきがするな。
それは一神教のイスラムやキリスト教とは大きく異なり、八百万の神がいて、争うことなく上手く住み分けているそんなところから来ているようにも思う。アラーの神のように生きるためには何が何でも自説を通そうとする、「争いの神」とは明らかに違う。
まぁだからというわけでもないのだけれど、色んな物語を自分風にアレンジできる風土というのは反対に和風ということができないかな。
タイトルの意味は私のBBS
をご覧下さい。
裸婦クロッキー10/19-4
はる 2682
街のギャラリーなどでよく見かけるのが、綺麗な花やどこかで見たような西洋のお城だったり、若い綺麗なご婦人を描いた絵だ。絵を商品だとするならば、まぁ売れる絵がもっともいい商品ということになるのだろう。
需要と供給の関係でいえば、そこで売られている商品が一番求められている商品であるわけだから、まぁ多くの人が絵画に何を求めているのかということが分かる。
専門書店でない普通の街の本屋などでは、一番良く売れるベストセラー物がやはり店頭に並ぶ訳で、後は雑誌とかコミックが一番売れるのだろう。コンビニなどは売れないものはさっさと消えてしまう訳だから、今の商売では一番商品管理が徹底している業種ではないだろうか。だからあれはお店ではなく、親会社のただの出先機関だという人もいる。
需要があるからそれにこたえようとする作家がいるわけで、まぁそれでなんとか生活できる絵描きがいるとすれば、まぁ満更悪いとも言えない。
こんなことを書きたくて書き始めたわけじゃない。
絵は個性的でなければいけない、と思っている人が多いでしょうな。だから大きな団体展などを見ればよく分かるんだけれど、みんながみんな「個性的な私」というのを主張している。
個性的でない人間はちょっとでも他と違いを見せるために人と違った格好をしてみたり、派手な言動で人の注目を惹いたりする。若い人は特に自分というのがまだ良く分かっていないから、そうやって表面的な違いを「個性」と勘違いしている場合が多い。
よくよく考えてみると、そうやって無理やり演出された「個性」というものはどこかに無理があるわけで、一生他と違うと言う事を主張し続けなくてはならにことになってしまう。それが本当に自分から出たものならそれもいいかもしれないが、段々に辛くなるような気がするな。
ブログなどもそうだけれど、個性的な人目を引くネタを探して書いているようではいずれネタはつきてしまう。そんなブログは長続きしないようにおもうな。こういったどうでもいいようなことでも、書いていればそのうち自分の中から自然に書きたいものがでてくるわけで、探してでてくるわけではない。
他と張り合うことを意識した個性などという物は偽物だ。人などどうでもいいのだな。自分自身であること、自分を知ることこれが全てだ。無理に個性的である必要はない。だれも私にはなれないのだから。