「花見酒」経済
いよいよアメリカ発の金融不安が始まってしまった。銀行に預けているキャッシュを人々がいっせいに引き上げ始めるとバタバタと銀行が潰れる騒ぎになるだろう。これからどうなってしまうのだろう?という不安が更なる不安を呼ぶ。それで一種の集団的なパニック状態が恐慌だ。
70年代のオイルショックもそうだったけれど、トイレットペーパーがなくなるというデマ情報で、いっせいにみんなが普段以上に買い占める。と、自然足らなくなるわなぁ。で、店頭から無くなってしまう状況が更なる不安を呼ぶというわけだ。これもまぁ、浅はかな集団真理というわけだけれど、ことお金のことになるとそう簡単ではないかな。
株なんか素人だからなんとも言えないけれど、会社が潰れない限り、自分が買った以下の値段で売らなきゃ損しないのじゃないの?などとシロウトは考える。まぁトレーダーなんかは会社一つ一つには感心がないわけで、ただの数字で売買やっているわけだか、当然会社に愛着なんかないのだろうけれどね。
株の売買などというのは、博打みたいなものでね、基本的には幻というのか、実態とは関係ない数字だけが一人歩きしているもので、冷静に考えるとおかしなものだ。
日本の90年代の土地のバブルの時そう思ったんだけれど、この土地は100万といって誰かが「買った」といえばその土地は100万の値打ちが着いた事になる。で、買ったものはそれに幾らか上乗せして値をつけるわけだ。で、どんどん値が釣りあがってゆく。
理論上はだれも損しないわけだ。次から次に売れて行けばね。ねずみ講みたいなものでね、生命保険もそんなとこあるけれど、理論上は誰も損しない。けれど実際は微妙はところで誰かがこういうんだ「これは裸の王様だ」で、一気に夢が破れる。バブルがしぼんで行く。で、もとの値段に戻るんだな。損をするのは一般の投資家というわけだ。
それにしても、市場主義経済というのはおかしなシステムだわな。落語に「花見酒」というのがあって、八つぁん熊つぁんが樽に入った酒を売り歩くのだけれど、途中でお互いに酒を売り買いして、樽の酒を空っぽにしてしまう。完売したわけだから随分と儲かったと思ったら、最初の五銭だけだった。おかしいなぁ.。と言う話。
こんな笑い話みたいなことを真剣にしかも大手を振ってやっているのがアメリカ経済なんだな。どこかおかしいよな。
何もいらない
はる 2667
「貴種流離」という話を前にどこかで書いた。もともと貧しい者がさらに落ちぶれて乞食になってもたいして面白くない。もともとは高貴な輩が落ちぶれて各地を放浪したりするから物語になる。こんな話は古今東西いたるところにある。
「何もいらない」の話は元々はフランチェスコの物語から来ている。彼の親はよくあるように町の名士だった。だから彼もそのまま行けば当然親と同じような町の支配者層になってゆく境遇だったわけだ。
まぁ嘘か本当か、よく分からないのだけれど、こういった物語がまことしやかに語られるということは、人間は昔からこういったものに憧れがあるということだろう。
人は生まれたときは裸で死ぬときも裸で死んでゆく。「この世の出来事はこの世でつじつまが合うようになっている」ちょっとちがうけれど、まぁかたいことは抜きにして、そんなことか。
人が動物から人間になったときに色んなことを得たけれどまた色んなものも失った。一つは本能という奴かな。動物なら本能に従っていればそう間違うこともなかった。食べたいときに食べたいだけ自由に食べればよかったのだけれど、人になって明日という日を知ってしまった。
そのために蓄えて置くということをするようになった。そこで持つものと持たざるものの差がでてくる。
「生きる」ということはすべて「欲」だ。無欲で生きるなどということは出来ない。個体維持と子孫を残すこと、これが欲の根幹をなすものだろう。
ところがあえてそれを捨てる、自分が出来ないからそういった生き方をするものに高貴なものを感じるのかな。
自分が欲しいと思ったものを描けばいい
二週間お休みだったので、明日は久しぶりのパートタイムジョブということになる。こう仕事が不定期だからよけいに嫌なのかな。仕事の前日はどうも欝になる。もう25年も同じことを繰り返しているのに、今さら欝が晴れることはないだろうな。
色々な要因があるのだろうけれど、もって生まれた性質というのが一番大きいだろうね。度胸のなさとか度量のなさ、優柔不断、無責任、そういったマイナスの要因を上手い具合に隠そう、あわよくば何事もなかったように済ませてしまおうというところから、破綻が起きる。まぁ今さらいっても仕方がないことなんだがね。
今日は一日絵の前に座っていたけれど、結局何事もおきなかった。これから半年ぐらい達磨大師ではないけれど、壁に向かって瞑想する。何が出てくるか全く持って予想が着かない。上手く行かないかもしれない。でもまぁ、何とかなるのだろう・・。
小さい作品は手のひらの中でゴロゴロ慈しんでいると、いつのまにかそれなりの作品が生まれてくる。自分が欲しいと思ったものを描けばいいわけだから、それほど苦労する事はない。けれどいつも大きな作品は苦労する。自然に生まれてくるというには無理があるんだな。どこかこじつけないと作品にはなってくれない。
私の場合、大きな作品と小さな作品の質の違いはそんなところからくるように思う。
なんとなく筆が進まない。というわけで、又明日。
「絵にする」「絵になる」
どうしようもないと思っていた20号にきりがついた。昨日までもう潰すしかないと思っていたのだが、なんとかいじくっているうちにすっと綺麗に見えてくる時がある。なんだろうなぁ、これって自分の力ではない。
往々にして力のあるものは、自分の力を過信してごり押し、力ずくで物事を解決しようとするのだけれど、それにも限度がある。最終的なきめはやっぱり、成り行き、あなた任せで自分の力ではないと私は思う。まぁ偶然といえばそうなんだけれどね。
「絵にする」「絵になる」というけれど、この見極めの目を養うのが、まぁある種の芸事の修行ということになるじゃろな。
青山二郎という目利きの格言に「美とは、それを観た者の発見である。創作である」という名言があるけれど、まぁ芸事のすべてはここに集約されるように思うな。
たくさんの名物や名品、優れた作品を見ることがその目を養う方法なんだけれど、何か一つ自分の「ものさし」を手に入れるのが手っ取り早い方法だ。絵なら実際に鉛筆を持って筆を持って描いて見ることだ。何万の絵を見るより早くその「ものさし」を手に入れることができる。
アカデミックな方法というのは、昔からの集大成でマニアル化したものだから、一番効率的に学べるようになっている。弊害もあるけど、わきまえて利用すれば価値ある方法だと思う。
なんだか、眠いので支離滅裂だ。又明日。
クロッキーについて
、 はる 2662
トータルNOを九月の後半から20ほど間違っていて、元の日記を先ほど修正しました。(アメブロのコラムナンバーはそのままです、2649~2687まで-21してください)故にこのナンバーコラムを二度書くことになる。ほとんどだれも気にして見てはいないのだろうけれどね。なにぶん人力でカウントしているもので、こういったことは過去にもあったかもしれない。でもまぁ、それならそれで仕方ないとおもっている。カウントそのものにはあまり意味がない。あしからず。
私のところにはじめて訪ねてくるお客さんに「クロッキー」で検索してくる方が多い。まぁ私はそれほどたくさん描いているわけではないので、落胆して二度と訪問されない人も多いかもしれない。
クロッキーを載せるのはたまたま、月に1回クロッキー会があるので日常の報告がてら載せるだけで、他の毎日のシャメと変わらない。デッサンやクロッキーだけを期待していらしたのなら、たぶん違うでしょう、他を当たってくださいな。
どこか他のサイトでもかかれていましたが、クロッキーはどこか体育会系の運動能力と似ているところがあって、何年もやらないと筋肉が落ちて下手くそになる。ピアノのレッスンや他のお稽古事でも言われることが多いけれど、一度覚えたからもうマスターしたというものではない。ただものの見方、考え方みたいなものは失われないかもしれないなぁ。
クロッキーのやり方、考え方について昔書いたものがあったので、蔵出ししておきます。少し長いです。
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はる 2168
クロッキー考
クロッキーについて質問される。とても人に教えるほど上手くはないのだけれど、長年やって来てはいるからねぇ、多少なりとも参考になるアドバイスはできるかな。それにしてもなかなか奥が深い。
基本的には一本の線で決めるつもり描くようにする。ところがこれがなかなか難しい。当然何本も間違えた線をひくのだが、気持としては、一本の正しい線を見つけるのがクロッキーの醍醐味だと思う。
物を良く観ろ。とはよく言われることだけれど、慣れないとただ見ているだけにすぎない。この観るというのは、こういうことだ。「この一本の線が、肩の線より何ミリ上にあるか?」ということなんだな。
常に全体を見て、今ひいている線の反対側を意識することだ。前後左右は必ずバランスがとられている。物事はただ一つだけではなりたっていない。体の右側の線をひく時は左のラインを意識することだ。それだけでもかなり違ってくるだろう。
出来るだけ体から離して、鉛筆は寝かせて描くこと。立てると細かい所は描けるけれど、全体が見えない。細かい所が気になりだすと全体は壊れている。
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はる 2169
昨日の続き
点、線、面について。(理屈なので面白くないです。とばしてもらって結構です。読まれる場合、実際に鉛筆を持って持ち方を確認しながら、読まれることをお薦めします)
例えば字を書くように鉛筆を持った場合、筆の自由度は一番大きい。前後左右、右回りでも左回りでも自由に線をひくことができる。
この時、紙と鉛筆の先を考えると、点で接している。点というのは動きとしては一番自由なんだな。全体を把握するのにはむかないけれど、細かい所を描くのに適している。
半面一番不安定でもある。というのは、方向性がない分、行き先が定まらない。そう、ちょうど一輪車みたいなものだ。くるくるとその場で一回転もできる。
この点が直線になってくると方向性がでてくる。鉛筆をつまんだように持って、そのまま縦にひくとかなり硬い直線がひける。自由度はすくなくなるけれど、安定した線がひける。
これは二輪の自転車みたいなものだ。一輪車ほど自由度はないけれど、それなりに安定している。クロッキーの場合、この不自由な安定した線のほうがいいように思う。
この時、紙と鉛筆は線で接している。ちょうど円の接線のようなものだ。例えば人物の柔らかいカーブを描くときも、このカーブにあわせて接線をひいている感じと言えば微妙なニアンスが伝わるだろうか?今どのくらいの傾きの線をひいているか?と無意識に意識することが必要だ。
クロッキーの線は無意識の線ではない。意識されていない線は観ていないと同意語なんだな。
絵を描くということは、無意識のものを意識の世界に引き上げるということだ。ただ一本の線でも「私はこの線を意識して選んだ」という自覚が絵を描くことの意味だと思う。
次に面だ。このつまんだ状態で横にずらすと面になる。これは四輪の車のようなものだ。一番自由度は少なくなる。
当然こまかいところは描けない。だからこれも線の方向を意識したように面の方向を意識することだ。具体的に言うならば出来るだけ単純な立体に還元してしまうことだ。で単純に明暗ニ分割する。
線の場合もそうなんだけれど、数多くの面からただ一つの面を選ぶと言うことは、「うそ」なんだな。「うそ」というと誤解があるけれど、どこかで決定しなければならないところが出てくる。そこを「えいやっ」と取捨選択すること。優先順位をつけること、それが意識するということなんだろう。どんな複雑なものでもこれの繰り返しで描ける。
意識して気にして選んで捨てる、そしてそれを忘れることができれば卒業でしょう。
さてこれでお終いです。努力継続すれば誰でもが描けるようになります。ただし、私程度の絵ならばということで、スパーリアルな絵を描きたいというならば別の方法をあたって下さい。
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