あそびべのはる・ここだけの日々・・・・・・・・・画家・榎並和春的日常 -5ページ目

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はる 2681
 全体の中の部分というのはなかなか意識されない。このことは物事の本質ではないかと思っている。

 絵を描く方法にも大きく分けて二通りあるように思う。一つは「部分の集まりが全体」という描き方。ちょうど編物のように兎に角どんどんと積み上げて行く。描いている時はその部分しか見ない。細部に徹底して凝る。これだとどれだけ大きな絵でも描く事ができる。

 もう一つは「部分は全体の中の一部」という描き方。例えば一本の線でもそれが全体の中でどれだけの位置を占めるかということを考えながら描く方法。これは物の見方、考え方と言っていいかもしれない。

裸婦クロッキー9/20-3


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はる 2680
 ほとんどテレビも観ないのだけれど、旬のニュースというのは耳をふさいでいても何処からか入ってくるものだ。

 福岡の子殺しのニュースはショッキングだったな。最初にこのニュースを聞いた時に何となく犯人は母親ではないかと思った。特に理由があるわけではないのだがね。一番不思議なのはこの場合父親の姿が見えないことだな、母親が悪い、言語道断、畜生にも劣る、などなどいろんな雑音が聞こえるけれど、責任の一端は父親にもあるわけで誰もそこのところを声高に言わない。

 障害をもった子供たちを育てること、たった一人で負いきれない不安。この国はこと個人に対して寛容ではなくなった。それは自身に当てはめればすぐにわかるのだが、歳をとって体が自由にならなくなればすぐさま自身に降りかかってくることだ。

 相撲界のドタバタ。彼らは出稼ぎに来ている。勝つことが至上命令で、勝たなければ国に返される。野球の助っ人なんかもそうだけれど、結果が全てなんだな。そういった意味では本当の意味の勝負師かもしれない。

 相撲界の常識とか格式など知ったことか。外国人を相撲界に入れた時点で相撲は世界的な興行SUMOになったんだな。サーカスや芝居や見世物と変わりない。いつのまにか日本の国技などと言って格式や様式、体面ばかりを気にするようになったけれど、元々はそんなに高級なものじゃなかった。

 柔道の時と同じだけれど、格闘技として今のまま世界的な興行にして行くなら、外国人をどんどん確保するのはいいのだけれど、格式だ伝統だ神技だと勝負以外のものを持ち込むなら鎖国して、こじんまり日本人だけでやればいい。

 事故米を売ったとか買ったとか、誰が悪いこれが悪いと言っているけれど、これもまたそんな所に本質はない。犯人をつるし上げても第二、第三の仕掛け人が出てくる。問題はそんなことじゃないだろう。農業は国の柱じゃないか。食料を外国に頼るから今回のさわぎのようなことになる。何が何でも自国の民が飢えないだけの食料を自給しようという運動になぜならないのだろう。

 相変わらず、株価が上がった下がったで一喜一憂している。アメリカの大きな証券会社が倒産したらしい。一昔前の日本のバブルの崩壊を見るようだ。突き詰めれば市場経済は博打のようだ。パチンコ屋は何故あれだけ流行っているのだろう。誰もが儲かったらパチンコ屋はすぐに倒産してしまう。これだけ多くのパチンコ屋が存在するのは、考えてみればわかるけれど、胴元が儲かっているということだ。

 博打は人間の本性なんだろうな。一獲千金これが人を奮い立たせる魔性の響きがあるらしい。俗に「のむ、うつ、かう」っていうからなぁ・・。

 いいたいことはまだまだある。誰も聞いてはくれないか。

彼岸花

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、 はる 2679
 HPを開設して約9年になる。まだこういったウェブの世界の始まりの頃で、今では誰でもが簡単にブログ(簡単なHP)を開設することが出来るが、当時はそれなりの知識が必要だった。

 ブログもHPも見かけ上ほとんど変わりがないのだけれど、無料で借りているCMつきの簡易HPがブログで、有料でデザインから全て自分で作って運営してるのがHPかな。まぁ今ではHPと言えばブログのことを指すぐらい、こちらの方がメジャーになってしまったけれど、長い目でみればブログは間借りに過ぎない。いずれ消えてしまう運命にある。

 ライブドアなど象徴的だけれど、さっと出てきたと思えばスット消えてしまう。明日は分からない。こういった情報産業は買収や統合も早いのでいつのまにか名前が変わっているということも多々あるなぁ。

 電話も最初は日本電信電話公社だった。民営化になってあっという間に競争の渦にまきこまれてしまった。まぁそれはそれでいいところもあったけれどね。私も最初は日本テレコムを選んだんだけれど、色々とサービスがついているようだけれど、いつも明細が送られてくるけれど、実際の所どうなの?よく分からないなぁ。生命保険と同じでわざと分からないようにしてんじゃないの?と思ったりする。

 でまぁ話が飛んじゃったけど、続きは明日にでもするかな。

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はる 2678
 協会のデッサン会が終了。こういった講習会というのはもちろん強制ではないのだが、本来会員の研修として始めたものだ。それを広く一般に公募して今年で10回目となる。

 しかし、結果的には会員はたった一名来ただけで、他はほとんど一般のオバサンやオジサンですな。この人たちは異常に熱心で頭が下がります。

 でもまぁ、デッサンというのか物を描写することの面白さというのは分かります。何も考えないでひたすらに対象に向かえばいいわけで、心も身体もへとへとになりますが、けっこう充実感があって快い疲労感が味わえます。

 好きでなければ、仕事以外にこれほど没頭した時間はなかなかもてない。そういった意味では幸せな時間の過ごし方ではないだろうか。

 絵を描くということは、本画でもデッサンでも、現れてきた上っ面は違うけれど、基本的には同じことなんだ。自分はこうみました、見えましたという自己報告みたいなところがあってね。はっきり言ってその確認行為が絵を書くということなんだな。

 見えた通り描いたというけれど、意識されないものは描けない。自分にないものは描けないのだ。

 一本の線でさえそうなんだな。無意識に引かれた線と、はっきり全体を意識された(一本の線)とは違う。また見る方も、そういった意識で見なければ、何も見ていないのと同じなんだ。ここのところが難しい。

 だから、絵を描く事も見ることも同じなんだな。描いた作者と同じ位置以上にいなければ、その線の面白さはわからない。絵を見ることは自分自身を見ること、確認することなんだ。

 今は割に簡単に自分を楽しませてくれるものが多い。例えばゲームとかパソコンなんかもそうだけれど、人に与えられたものの中で遊ばせてもらっているという感じがする。ある意味幻を相手にしているような、あなた任せの安定の不安定さがあるように思うな。

 よくは分からないのだけれど、昔ながらの芸とこういったところが違うのではないかと思うんだな。いいか悪いかわからないけれどね。まどろっこしいけれど、地道な自己確認というのかな。一筆一筆が自己確認の連続だから、だから逃げないというのか安心できる気がするんだな。

2008/09/21

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私の出番はありませんでした

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、 はる 2677
 台風はそれたらしい。計画通りにモデルさんが来て私の出番はありませんでした。ということで疲れた。

台風の影響で雨になる

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、 はる 2676
 午後から台風の影響で雨になる。明日にかけて大雨になる予報、少し心配。なぜなら明日、あさってと美術協会の裸婦デッサン講習会があるからだ。

 ここはすぐに電車が不通になってしまう。東京からモデルさんをよぶのだが、最悪の場合午前中これないかもしれない。そうなると会員達が手分けしてモデルをするしかないか?勿論ヌードと言う訳にはいかないけれどねぇ。

 何度かモデルをした事があるけれど、同じポーズを5分10分するのはけっこう重労働なんだ。

 ということで、明日はどうなるのでしょうか。

2008/09/18

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「いつかみたところ」

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、 はる 2674
 
2008 個展に寄せて(試案)

「いつかみたところ」

 むつかしいことはよく分からないのだが、宇宙の創生と私の誕生はどこかでつながっているらしい。たとえオオボラだとしても楽しいではないか。個をよく知ることは宇宙の真理を知ることでもある。

 さて、先日テレビを観ていたら車のCMでこんな事を言っていた。「今の貴方は選んできたあなたの総体だ」、なるほどそう考えると納得がいくことがある、今の私は「いつかみた私」でもあるわけだ。

 絵を描く面白さは、ぶっつけ本番の真剣勝負だと思っている。自分の心の中に浮かんだものが何なのか、具体的になってくるまで自分でもわからない。

 もうすでに分かっていることを描いても面白くない。それよりも私は何故それに引っかかりを感じたのか、「いつかの私」が何を見て、何を選んできたのか知りたいと思う。

 今年もそんなことを考えながら「いつかみたもの」を拾い集めてみました。ご高覧、ご批評よろしくお願い致します。