裸婦クロッキー9/28-2
はる 2687
「一本の線7」
例えばバリバリのアカデミックな訓練を経て、さて何を描こうかなと考えた場合、はたと困ってしまう。描くものがない。デジカメとパソコンのホトショップでほとんどが間に合ってしまうものなぁ。
超リアルな絵を描くなら別だけれど、ほとんどそういったアカデミックな技術を発揮する場がない。リアルな絵でもこれだけパソコンが普及してしまうと、リアルになればなるほどパソコンから出力された絵に近づいてしまうという、ジレンマが起きている。
自分の絵を考えた場合、クロッキーやデッサンはほとんど参考にならない。まぁそれは直接スケッチされたリアルな人物を描いていないというだけではない。反対に変にリアルに立体的に描写すると可笑しなものになってしまうものなぁ。そんなものだれも見たくはないだろう。
絵を描くという技術の習得と表現者の間には大きな溝があるのではないかと思うねぇ。ただ単に上手い絵、綺麗な絵も必要だけれど、それだけじゃ表現者にはなれない。
まぁ今の入試のシステムではそんな所は評価の対象にはならないのだろうけれど、美大や芸大が絵を描く職人を育てる専門学校なら今のシステムでもかまわないのだけれど、表現者を育てるというのであれば、もう少し違うシステムが必要だろうな。まぁいずれにしても学校というシステムで教えられるものじゃないのかもしれない。人生そのもので学んで行くものだからだ。
じゃ何でクロッキーなどやって訓練をつんでいるのか?無駄ではないかといえば、そうでもない。無論面白い、楽しいということが一番なんだけれど、そう、前にも書いたけれど「この線が生きてる、必要な線だ」というのはこの訓練を経ないと分からないところがあるんだな。
特に「この部分の全体の中で占める位置」みたいなものは、そう前に書いたアカデミックな訓練がとても助けになるんだな。これ以外にもその目を養う方法はいっぱいあるのだけれど、まぁ知っている限りはこの方法が一番手っ取り早い方法だ。
ようするに「絵にする方法」なんだな。物が上手く綺麗に見たとおりに描けるかどうかより、要するにこれなんだ。
裸婦クロッキー9/28-1
はる 2686
「一本の線6」
私の場合でいうなら、はっきりと分ける事ができないのだが、どちらかと言えば「部分は全体の一部」という描き方だろうな。しかし、正統のアカデミック派からすれば、明らかに「部分派」に見えるだろう。
描いている内にもややもすれば部分の描写に走っている自分を感じる。特に顔の表情はとても面白く、「全体派」からはこだわってはいけないと言われている、顔が上手くかければ安堵するようなところがある。だからまぁ、部分の描写にこだわる気持ちは充分にわかるつもりだ。
それから、文学趣味のところもある。単に造形遊びだけでは満足しないところがあって、絵を描く動機の大部分はこの文学趣味のところから来ているように思う。まぁ「全体派」から言わせれば鼻持ちならない少女趣味ということになるかな。
少しばかりアカデミックな教育を受けたために「全体派」の面白さも分かる気がする。反対にガチガチの彼らの悪い所もわかるのだな。まぁ何事もそうだけれど、一方がたに偏りすぎるのはよくない。私のようにほどほどのいい加減がちょうどいい。
裸婦クロッキー9/20-7
はる 2684
「一本の線5」
この間から考えてきた「一本の線」についての考察、まぁいつものように結論を導き出すようなことではないので、つらつらと考えながら書いて行きます。あしからず。
私がクロッキーが面白いと思うのは、絵を描く原型というのか、最も原始的な絵を描く喜びがそこにはあるからだと思う。無心に何も考えないで、と言えば少し格好つけすぎなのだが、まぁそれに近い所がある。気持ちよく一本の線がひけたらそれはそれで一日気分がいい。
ところで、話はもとに戻るのだが、絵の描き方にも二通りあるという件。最初の「部分の集まりが全体」という描き方は推測でしか書けないのだが、まぁ一般に絵が好きだという人はこちら側のひとのように思う。描いていれば他には何もいらないといった、没頭型。近視眼的に細部を徹底的に凝るタイプでもある。細かければ細かいほど評価が高くなる。全体像は終わって見なければ分からない。
漫画とか写真とかそういった資料からイメージを膨らます。表面的に見えたものが全てであって、その立体的構造とか、見えない部分がどうなっているかなどという発想はない。シュール(超現実主義)とか文学趣味が多少入っている。
物のとらえ方が平面的である。と言えば非難がましく聞こえるけれど、我々日本人の伝統的な空間のとらえ方はこちらの方である。だからどちらかと言えば版画や文様、デザイン的なセンスは欧米人よりあるように思う。家紋など優れたデザインだものなぁ。
今をときめくアニメーションとかフィギアなどもどちらかと言えばこちらの方だな。パソコンやケイタイがこれからの表現の主流だということを考えると、時代の軍配はどうやらこちらの方にあるきがする。
一方の「部分は全体の一部」という描き方は、自然にそうなるのではない。明らかに何かしらの強い意識でもって訓練しなければそういった見方や描き方はできない。要するにいわゆる西欧的なアカデミックな描き方ということになる。
「一本の線」の発想の元になっている言葉なのだが、絵を描く場合に常に画面全体を意識しているということだ。これは言葉で言うのは簡単なんだけれど、かなりの意識の訓練が必要だ。
人の体というのは必ずバランスがとられるように出来ている。一方がたが出れば、もう一方が引っ込む、いつも全てがトータルに微妙な関係で成り立っている。何かしらの力が働かない限り一方かただけに集中することはない。
体の右側のラインを引く時は必ず左の見えないラインを意識して引く事だ。そしてその線は頭の先から、足の先まで一本でつながっている。たとえ途中で切れたとしても、それは未完成ではない。左側のラインが意識された右側の線はそれ自体で自立して終っている。分かるかな・・。理屈だけれど、これは本質だ。
「セザンヌの塗り残し」がなぜ凄いのかといえば、塗り残しが意識された空間で残されて自立しているからだ。全ての点がある一定のルールでもって自立している。このことが次にの抽象絵画運動へとつながって行く。
続きはまた
裸婦クロッキー9/20-5
はる 2682
昨日の続き
(全体の中の部分というのはなかなか意識されない。このことは物事の本質ではないかと思っている。
絵を描く方法にも大きく分けて二通りあるように思う。一つは「部分の集まりが全体」という描き方。ちょうど編物のように兎に角どんどんと積み上げて行く。描いている時はその部分しか見ない。細部に徹底して凝る。これだとどれだけ大きな絵でも描く事ができる。
もう一つは「部分は全体の中の一部」という描き方。例えば一本の線でもそれが全体の中でどれだけの位置を占めるかということを考えながら描く方法。これは物の見方、考え方と言っていいかもしれない。)
そうどんなに上手く描けていても写真など一度平面になったものから作画した作品と直接物を見て描いた作品とは違って見える。まぁよく言われるのが平面から描いた絵には奥行きが感じられないとか、漫画的とかイラスト的などと否定的に言われる事が多い。
私はどちらでもいいと思う。作画のスタイルの違いだけなような気がするからだ。そんな事を言えば下絵を作って描く日本画など全てイラストと言う事になる。
私の場合はいわゆる「部分が全体の中の一部」という描き方に近い。だからある程度の大きさの絵しか描けないのだな。常に全体が見えていないと仕事にならない。アトリエの容量の関係で、今の大きさが限界だ。部分を描いてつなぎ合わせて大きな絵にするというのが難しい。
この「部分が全体の中の一部」という考え方は、前にも書いた事があるけれど、例のフラクタルの法則に似ている。自己相似性というやつ。少しひつこいけれど蔵出しします。
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はる 2470(蔵出し)
・・ということで話を戻そうか。どこまでいったのかな、「おおいなる意志」の話からだった。
絵画というのは一見自由な空間に見えるけれど、これも自分の意識内にあってある種の宇宙の理の範囲の出来事なんだな。神がこの世界を作ったように今度は私が彼に代わって世界を作るというわけだ。
まぁこれに似た話も幾度となくここに書いたから新しくもないけれどね。でその理というのはいったい何じゃということだな。口で言うのは簡単だけれど、じゃどんなもんじゃ説明してみろといわれると、はたと困ってしまう。それが上手く説明できれば私はノーベル賞でももらえるのじゃないだろうかね。
・・中略
自分の将来の姿というのは今の自分の中にある、ということなんだな。見えないかもしれないけれど、未だ眠っているのかもしれないけれど、その多くの場合は今の自分の延長上に将来の私がいる。
昨日の話とつながるのだけれど、一日というのは自分の一生に似ている。で自分の一生は人類の寿命に似ているし、地球の誕生から終わりまでだし、この宇宙の始まりから終わりまでと似ている。
で、この話は例のフラクタルの法則に似ていないか。自己相似性というやつ。この法則、簡単に言えば「部分と全体が同じ理でできている」ということなんだな。
今の統計学なんかもそれを使うんだけれど、そう例えば商品の抜き取り調査でも、全部を調べないでもある程度ランダムにそこそこの数量を調査すれば全体が推量できるというもの。これは全体は部分と同じ確立で出来ているということの応用だな。選挙の当確予想も似たようなものだ。
で、話は少しずれてしまったけれど、その理論から推測すれば私は小さな宇宙の模型ということになる。
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これはね、「一本の線を描く事」でも言える訳でね、全てが根底でつながっているということだな。
まだもう少し書きたい。
















