ASKAの「本日も恋愛小説」

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日常と非日常のはざまで生きる痛女(イタジョ)の
気づいたことや伝えたいこと。
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なんだか時が過ぎてしまいました。

文章を書くことが怖いのかもしれません。

そう、人は本当に行いたいことに近づくと、どうにも恐怖を感じるものなのだろうと思います。

 

夢違を読んでいて、悪夢ちゃんの原作本であり、直木賞候補作ですが、江戸川乱歩賞選考委員である大先生の作品ではありますが・・・それでもこれは悔しいです。

私が現代の小説を読まない最大の理由がわかった(認識した)気がします。

八咫烏に夢殿に夢分析に吉野の桜、やられたあ、という気になっても仕方のないモチーフですが、もちろん、それこそ神棚にいろんなものをお供えしてのちに、悔しいと感じています。

 

(棚に上げたもろもろ:意味もなく人生経験を積んじゃったこととか、中途半端に創作に向き合って小説から逃げ続けてきたこととか、やっと明快に自覚したんですが小説はすごく下手だということとか)

 

なにやってたんだか・・・

おまけに、この期に至って「怖い」とかアホなことを言ってんじゃねーよ!と思う次第です。

 

寒い日ですね。

「夢違」を読んでいて、ああ、結衣子の一房の白い髪はブラックジャックと同じなんだと気がつきました。(テレビを見ていると知ってるホスト君に顔が似ているな、という方に気を取られてしまって)やはりまったく新しいスティグマ(聖痕)というものは難しいのですね。

変なことをいうようですが攻殻機動隊と共通項を感じました。攻殻機動隊で描かれる「ネット」と夢違で描かれる「集合的無意識」は良く似ている。もともと両者が似ているわけではなく(というかそんなに似ていないと思う)、その定義づけとか、モチーフとしての女性がそこに溶け込んでしまうところとかが似ている。あるいは、攻殻機動隊が集合的無意識を「ネット」として表現しているという方が正しいのかも知れない。

 

夢を見るのかと聞かれれば、たぶん私はとても啓示的な夢をいつも見ている。夢をみるために生きていることもある。夢の世界はとても奥深く色鮮やかで美しく、現実なんてとてもつまらない。物語なんてとてもつまらない。

 

     

そういえば先日、鏡リュージさんのお話に惹かれて、イベントに行って、プラチナpt850のディズニージュエリーのペンダントを頂いてしまいました。ミッキーの三つの円モチーフがさりげない大人可愛い感じ、定価7万円。

 

そもそもその無料イベントにはかなりの応募があったらしく、それに当たったうえにその中で最も高価なプレゼントを頂いてしまったので、結局1000人に一人くらいのラッキーでした。皆様ありがとうございました。

 

そのイベントのなかで、「最近、新月や満月に集まって祈る、ということが流行っていますが(ホントに流行ってます)あれは、白魔術から少し逸脱しているかも」という鏡さんのお話がとても面白かった。魔女狩りにあっちゃうかも知れないから気を付けてね、というご心配からかもしれませんが、白魔術と黒魔術の境界なんてほんの軽いもので、ふっと超えてしまうものなんです、気を付けていないと、特に若い女性は潜在的に力も比較的強いですし。

 

私はこの世は呪いの言葉に満ちていると思うようになりました。というよりは、言葉の全ては呪いとなりうる、あるいは思いの全ても呪いとなりうる。

「可愛いね」という言葉は、成長するな、物を考えるな、俺を拒絶するな、という呪いかもしれない。

「きれいだね」という言葉は、甘えるな、美しいままでいろ、弱さをみせるな、という呪いかもしれない。

「優しいね」という言葉は、あたしの思い通りに動け、お前の欲しい物を諦めろ、という呪いかもしれない。

「かっこいいね」という言葉は、あたしの理想通りでいろ、老けるな、人形のようであれ、という呪いかもしれない。

 

「愛している」という言葉くらいかな? 呪いとなりえない言葉は。

 

こうしたポジティブな言葉でさえ、呪いとなりうるのですから、ネガティブな言葉を使ったり、思ったり、掲示板に書いたりすることは避けた方がよいでしょうね。

自分がネガティブな言葉に捉われている限り、幸福を感じることは難しいでしょう。たとえあなたが幸福だとしても。

 

鏡さんいわく、黒魔術と白魔術の境界は、真顔かどうかだそうです。あなたが微笑みを浮かべながら、「あのひとがわたしを振り向いてくれますように」と思うことはIN。新月の月に向かっても向かわなくても(新月は願いが敵いやすいと言われています)、真顔で同じことを願ったら、もうその時点でOUTだそうです。

 

ああ、でもそれ、わかるかも。


 

面白いので一話からかかさず見ています。基本的にテレビドラマはすべて1話をみて、その中から2、3本みます。

このシーズンは悪夢ちゃんとひまわりですね。なんとなくドクターXも。

 

私は自分は「夢」によって救われてきたのだろうと考えることがあります。

眠るときに見ている夢。

私は子供の頃から、鮮やかな、さまざまな、特に風景とか建築物の美しい夢を見続けてきた。それによって自分の安定を保ってきたような気がする。

だから結構追い詰められても眠れなくなることはない。

私は生活力は「からっきし」ないけれど、生命力は強いのだ。

 

悪夢ちゃんのようなことが起こりうるかというと、今の私の拙い知識では、起こらないとも限らない、としか言えない。

強い意識というものが一種の信号であるとすれば(まあ信号といえば信号なんだけど)、その信号を他人がキャッチしてしまうということはありえなくはない。

それが意識の底に残り、その夢を見ることもありえなくはない。

脳科学の世界はまだ始まったばかり、という段階だとも言えるから。

(だからといって、知らない人の顔まで鮮明に投影できるとは思えないけれど。)

 

夢診断、ある種の精神分析を学校の先生である主人公の女性が行ってしまうのは、主人公のヒロイン性として素敵な感じ。

私も夢診断ができるようになりたいですね。まあ、そんなこんなで「赤の書」を借りてきました。。。

重い!

図書館のかわいいお姉さん(ちょっと図書館ぽくなくていい感じです)が「持って帰りますか?」と聞いてくれたほど大きくて重い。

これじゃあ4万は仕方がないかな?と思ってしまいました。

 

紙袋をお借りして(貸してくれるんですね)持って帰りましたとも!!

 

この本が持って帰れるのは、ゴールドジムのおかげです。

ゴールドジムで腕の筋力が(少しばかり)鍛えられる前は、私は大根を買っただけで泣きそうになっていましたから・・・

はい、真面目に筋力がなかっただけです。

日常生活を円滑に送るためには(「赤の書」を図書館から借りて帰るとか、大根をスーパーから買って帰るとか)人並みの筋力が必要です。

ただし、人によっては(私のように)人並みの筋力がまったく身に付かず、流行りのサーキュラー・エクセサイズでも無理で、ゴールドジムに通う必要がある場合があります。

 

生きていく力を図ることは難しい。

なんとなく自覚しているものの、自分の本質的な弱さを認めることは勇気が要ります。

でもある種の弱さは、特殊な機関(たとえばゴールドジムのような)に通わなければ克服することができないのです。

 

て、ゆうか、これ、開くのにも力が要る。

 

ユングに近づくのって、なかなか骨が折れますね・・・



 

昨日から本格的に「ヴィジョン・セミナー」を読み始めました。ユングが英語で行った大変興味深い80年ほど前の講義の記録です。1997年まで門外不出であったために日本語版発刊からまだ1年も経っていません。

いろいろと面白い。日本語も美しいです。

ああ、これなら買ってもいいかな?と値段を調べたら、上下巻で29,400円・・・

?!

いや、確かに厚いし、冒頭カラ―ページもあるけどさ・・・アマゾンで見てたからおススメも(ユングの赤の書、あ、これも出てるのね。これも確か門外不出だったはず)合わせると 
71,400円、って正気ですか?

 

誰が買うんだろう? 研究者ならもう英語版を持っているよね? ドイツ語が原著じゃないからとっつきやすいだろうし。

ユング好きなお金持ち? ジャニオタとかAKBオタみたいな、ユングオタ?

何にしてもすごい世界です。出版社って勇気あるんですね。

 

(昨日調べたところによると)タロットカード・リーディングにも今はユングの影響が顕著だそうです。じゃあ占い師の方々?

うん、確かにとある占い師の方が赤の書を買っちゃった的なブログ書いていました。

 

(私はとりあえず近所の図書館で借ります。誰も借りてないみたいだし)

 

宗教を実質的に持たない私たちが、何かの「救い」や「導き」を求めてしまうことは自然だと思う。

カウンセリングは思ったほど日本には浸透していない。多くの人には告解の機会もない。

さまざまなセミナーが開催され、コーチングが流行り、新興宗教が蔓延り、占いのページやコーナーは生き続ける。

 

でもなんだか胡散臭い。

 

なるべく胡散臭くないものにと、私はエヴァやホストクラブに「救い」や「導き」を私は求めたのかも知れない。

 

うーん。