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駅の本屋に行った帰り、息子が遊びに行っている公園に寄ろうと思った。
なんとなく場所が分かるのだが、方向音痴らしい私にはどこに行っても
建物の区別が付かなく必ず迷子になることを考え、素直に帰ることにした。

土曜日に息子が友達と遊ぶのは珍しい。
そんな息子も春には小学五年生になる。・・・なんてことだ。
そういえば、冬休み前の個人面談で初めて担任の先生と膝を突き合わせた。
夏休み前の個人面談は私の仕事が失神したいほどの忙しさに追われ、
ピンチヒッターでTADに行ってもらったのだ。
その際、担任から注意されたのが『おませなエロガッパ』みたいな感じで、
エロ発言をする、と赤っ恥を掻いたそうだ。

あぁエロ。エロかぁー。エロはダメだな。公然としちゃダメだな。
家では、あまりエロを隠さないというか、何というか。
その辺は放っておいていた。
最近でも、『ママも生理痛ってある?』という質問に、そうねぇ~、
『時々、痛くてどうしようもないときがある』と答えた。
息子は、『でも、男の子だってちんちんの皮剥けるの超痛いんだよ。』と溜め息を吐かれ、
『だけど、男の子は人生の一瞬で終わるじゃん。女の子は人生の大半が痛いよ』と返してやった。
『それは・・・・・辛いねぇ~』と呟く背中に、『だから女の子には優しくするのよ』と付け足した。

生理痛、よりも、生理を知っているのか・・・と妙に感心した。
確かにウチは、訊かれたら答えるをしてきたばっかりに息子はエロガッパに違いない。
だけども隠したっていつかは知るのだから、むしろ間違いのないように教えればいいか、と思ってる。
念のため、『エロガッパ事件』は家では公言していいことも、
家から出たらエロスは忘れろ、と注意した。

そんな事があったもんだから、個人面談はドキドキしながら伺った。
『勉強もしっかりやってるし、友達には優しいし。性格は明るいし。文句なし』
つい、うっかり、『そ、そんな、な、なにか、問題あるんじゃ?』
動揺した。あのエロガッパ。
外では、社会生活をそつなくこなすエロガッパめ。信用ならん。


親っていう生き物は、全く勝手である。
注意されたら怒るし、何も云われなければ不安になる。
なので、私は未だに息子がエロガッパであることを信じて疑わない。
いや五年生になるにあたって、もっとエロガッパをパワーアップさせることを懸念すらしている。
第三弾は、今更ながら『バカの壁』
なんかこ難しそうじゃん?って思っていたけれど、
養老さんの話し振りに(TVの影響大だ・・・)興味が湧いた。

言っておくが、思ったより難しくない。
それから、とっても共感するけれど要約できない。
ただ養老さんの鋭い指摘が、そりゃそうだったなーと感心することしきり。
例えば、今は個性の時代とか言ってるけれど
もともと全ての人間が違うことが当然なんだから、
それが前提の話じゃなきゃおかしいじゃん?っていうこと。
つまり、個性を求める・・・というのは違いを認めてないから問題であって、
むしろバラバラであるからこそ、共有できる思いとかが必要じゃないか、
という、まさに「逆に」、的な話だった。

・・・意味、分からなくなった。あたしが。

その人が、その人である、ということを認めればなんてことはない。
なのに、世の中は出る杭は打つみたいな、集団意識の固まりで
その中で生き、今度は個性を求められるなんて、あぁしんどーぉ!!

(あたしの解釈がバカなのか、言い回しが下手なのか分からないが、
 もし読んだ方で上手く言える方がいたら、ご一報下さい。すいません。)


と、とにかく、養老さんの端々に出る毒がなんともニヤッとさせられる。
この手の本を毛嫌いしそうな方でも、本の中で書かれているように
『この辺はちょっと難しいので、すっ飛ばして読んで結構です。』
これが出たら、すっ飛ばして気楽に読みましょう。
第2弾、本の話をします。
・・・つまんなーいと呟き、他に何かないの?と突っ込んだ方。

ございません。

えぇ、何もございませんとも。
これが友人ならば、
『そんな君にはバカの壁をぜひお勧めしたい』と進言するところですが、
なにせ私は大の人見知り女ですから、
つまんなーいと申された方は少し休憩していていいですよ、みたいな
親しくもない方に悪意むき出しの意地悪が出来るほど、子供ではない、
そんな自分に、勝手にちょっとがっかり!!
・・・話がまた逸れちゃったよ。



一昨年ぐらいにブログでも載せた『セックスボランティア』
とうとう文庫本が出たので、新刊をつい買ってしまった。
読み切った後に、私の記憶は11年を経とうとする出来事を思い出させた。

息子を産んだばかりの私が中退した高校の体育祭に行ってきた帰り。
駅のホームのベンチに座っていたら、ドカッと隣に座る人がいた。
顔を見ると、どうやら知的障害者の男の子だった。
息子を産まなければ気付かなかったことの一つに、障害、がある。
誰しもが障害者になり得ること、誰しもが障害者の親になり得ること。

そのとき一瞬の出来事だった。
突然、知的障害者の男の子が私の靴を片方取り上げ、手首を掴まれた。
『ここにお母さんいる?お母さんはいないの?あっちの方に行こう』
私は『お母さんはいる。だから靴を返して下さい』と言ったけれど、
手首を掴む力が強くて逃げるに逃げれなかった。
男の子は、お母さんはどこにいる?と訊くばかりだった。
私の様子を見て、背の高い中年の女性が近づいて
『その子は私の娘よ。手を放しなさい。靴を返しなさい。』と助けてくれた。

離れた場所で、助け出してくれた女性は私にこう言った。
『知的障害者だって、男なのよ。
力も手加減が出来ないし、 性欲もあるの。だから気をつけなさい。』
私はお礼を言って別れた後、ただ恐かったのを覚えている。

セックス・ボランティアは、身体的・知的障害者のそういった性欲を
現実ではどう処理されているのかを取材した本である。
処理を外で、あるいは1人で出来るのはまだいいほうで、
家族が自慰行為を手伝うこともあるのが実情なのだ。

人としての営みを、当然のごとく出来ないのが分かっている筈なのに、
私はそんなことを想像出来るほど、何も知ってはいなかったのだと思い知らされる。
どこかで、障害者は人間の欲というものを超越したところにいると思っていた。
ううん、思っていることで私は知りたくなかったのか、認めたくなかったのかもしれない。

障害は健康で産まれていても、病気や事故になって突然にも背負うことがある。
私の夫や息子、両親、彼らが障害を背負うことになったら、
私は自慰行為を手伝うことが出来るだろうかと想像する。
11年前の記憶が巡ってきては、背筋が凍ってくる。

セックス・ボランティアが必要なのか?
この問いに本にも、私にも答えは出せない。
ボランティアでしか肌を重ねることが出来ないのは、障害者自身が傷つくそうだ。
本当は、愛し合う中で営みたい。
それは、障害を越えていく想い。
きっと世の中の誰もが、そう望むもの、
私たちと何ら変わらない。
それだけが、私の中の事実だ。