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島崎藤村の代表作『破戒』を、
読んだことがあるだろうか。
日本に差別はない、という人がいるけれど、
差別は、存在する。
藤村は、部落差別を痛烈に批判したくて、
『破戒』を書いたのではない。
己を、批判して書いたんだ。

実際に藤村は、自分の親しくした人が、
差別を受ける部落出身者だと知った。
差別をしてはいけない、という心と、
それでも差別をしてしまう、心。
本当の自分を知ったときの、苦悩。

差別をしてはいけない、と高らかに云えるほど、
本当に高尚な人間などいるのだろうか。
どんなに立派なことを云おうとも、
その胸の内は、どこまで真実なのだろうか。

人は大抵、それが自己欺瞞だと気づかない。
だけど、自分の中の小さな自分に気づいたとき、
どれだけの人間が、それにきちんと向き合えるのだろう。

私は、藤村が「差別とは何か」ともっともらしいことを、
気持ち良さそうに言う人間ではなくて良かったと思う。
つまり、私たちは神様になる必要などない。
高尚な人間になろうとする必要もない。

だけど、差別をする心が自分の中にあると認めたときに、
初めて、人は差別を意識できるのだ。

私の中にだって、差別をする心はある。
私は、そういう自分がいることを否定できない。

差別は、どこにだって存在する。
たとえば、誰かに対する「してあげる」というのは、
誰かに何かをしてあげる、と言う自分に、満足し、
本当は、自分の気持ちが良くなりたいだけかもしれない。

そういう自分がいるのか、自問自答しなければならない。
そんな思い上がりがないか、自分に自問するのだ。
私たちは、誰かを救えるほど立派な人間じゃないし、
誰かを助けてしまえるほど、万能ではない。


人はまた、ときとして誤解する。
それは、表面を撫でただけじゃ解からない。
厳しいことを言っただけで、意地悪だと思うし、
優しいことを言っただけで、優しい人だと思う。

人というものは、高尚になどはなれなくて、
誰かを理解できるほどの人間には、なれないかもしれない。
だから、誰かと分かち合えるほどの何かを、
ずっと、ずっと、探してみる必要があるんだ。










そして、本当のことを知る。
人は、誰かを変えることなんてできないし
人は、誰かに何かをしてあげられるほど偉くもない。
だけど自分を変えられるのは、自分だけなんだよ。


もし、差別する心を見つけたのなら、
その心と葛藤できるのも、また自分だけなのだ。






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私は、小さい頃から三番目として育てられた。
私は、三姉妹の長女だけど、
母が好きな娘の順位を云うとき、
どんなに頑張っても、どんなに愛想を振りまいても、
私は、いつも三番目だった。

一度だけ、聞いたことがある。
私がどうして、三番目なのか。
末妹が好きな順番は誰?って聞くから、
と答えてくれたけど。
どうして、私が三番なのか、
どうして、そんなのは嘘だよ!、
って云ってくれないのかが、分からない。
そんなの、今でもわからないよ。


それが、不幸だと思う?
私は、家族をとっても嫌いになる。
いつも、母の悪口を言う父。
いつも、私を監視して告げ口する妹達。
いつも、父に騙されたという母。
お互い嫌いになれば、それはもう相思相嫌。

私は、哀しいと思ったし、孤独だとは感じたけれど、
不幸だと考えたことはない。
子供なんて、大人のもとでしか生きていけない。
だけど、親だって完璧じゃない。
小さな頭だって、なんでも解るんだよ。

私には、ナオと本がそばにいた。
家族の代わりにお喋りしたのが、ナオ。
両親に教えてもらうはずのことは、本。
それが、私の世界。
小さな世界。


私が、母になったとき。
私が欲しかった愛情は、全て息子からもらった。
小さな手が撫でる、私の頭。
私が泣いたら、泣くのをこらえて、撫でてくれた愛。
こんなに小さな子が、自分の感情をおいて、
相手を思いやろうとする。
それが、思いやる心だと教えてくれた。


私は、きっと母と同じように完璧になどなれない。
いつか、息子は私よりも大切な人を見つけるだろう。
それは、とっても素敵なことだ。

私が欲しかったものをくれた、唯一の人。
私が、母に恋したように、
きっと、彼も私に恋い焦がれてくれたんだ。





もしさ、あなたが親と分かりあえなくて辛いのなら、
子供だって、親をときには見放したっていいんだよ。
諦めたっていいし、嫌いになったっていい。
それは、自分本位に生きていいってことじゃないよ。

言葉を一つも残さずに、
親から、心をそっと離せばいい。
あなたはあなた自身の、人生を見つけたらいい。
その先は、あなたが決めればいい。

幸せの価値なんて、たとえ親子でも違うものだから。








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私の嫌いな言葉。
運命。
運命だねって聞くだけで、嫌な気分になる。
そんな劇的な言葉で、何もかもが符合した気分になる、
その感じが嫌だ。
運命なんて、信じない。
そういう言葉で納得したいだけでしょ、って云いたくなる。
だから、運命っていう人も信じたりしない。


その考えが根本的に違うから論じてもしょうがない、
っていう言葉も、嫌いだ。
だったら、初めから認めちゃえばいいのに。
それか、とことん論議すればいいのに。
投げてるのは自分だって、気づけばいいのに。
だけどさ、同じように育った兄弟でさえ、違うのに、
どうやったら、同じ価値観の人なんているの?
隙間なくぴったり同じだとしたら、
それはもはや、その人自身じゃない。
そんな言葉を云われると、私じゃなくてもよい、
という気さえしてくる。


きちんと最後まで人の話を聞けなくて、
自分の中で話をまとめてしまう人は、尊敬しない。
そういう人は、自分と他人を混同しすぎる。
自分と他人の違いを、いつまで経っても気づかない。
だから、自分との距離感を見誤り、勝手に傷つく。
知らない、ということが、
ときに人を傷つけることも知らない。
解かっていない、ということが、
たくさんの誤解を生みだすことも知らないように。


物事というのは、それがどういうものになるのか、
また、どういう結果となりえるのか、
それを知るまでには、とても時間がかかる。
それなのに、短絡的に早急にその物事を捉えるのは、
寛容さが足りない。
寛容さが足りないと、物事の本質は解からない。
本質が、そんなに安易に解かるのならば、
世界に争いなんて起きないのだ。
寛容さのなさは、揉め事しか引き起こさない。



私には、嫌いなものが多い。
だから、少しでも好きなものを見つけることにする。
嫌いなことに囚われると、
大抵の時間が、憂鬱なものとなるからだ。