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ニーチェの本の一節には、こんな言葉がある。

『約束をよく理解し守り続けるためには、理解力と記憶力が必要になる。
 理解力と記憶力は、鍛錬されて獲得できる知性の一部である。
 相手に対し、あるいは遠くの誰かに対し同情を持ちうるためには、
 充分な想像力が必要で、これも知性の立派な一部である。
 人間的な論理や道徳というものは、知性と強く結ばれ、
 そして、知識のない知性というものはありえない。』





私は、基本的に報道やネットの情報を真実だと思っていない。
人は、私を含め、どんな情報に接したとしても、
それが、たとえ真実に接したとしても、
それを捉えた瞬間に、主観的になるからである。

その人自身が、どう捉えたかによって、
真実は事実となり、情報は作られるからである。

どちらが正しい、とか、どちらが悪い、というのは、
その人の論理や道徳によって、左右されるものだ。
だけど、その論理や道徳でさえ、知識が必要となる。

もし、接した報道が大切な事実を隠していて、
それを知らずに、その報道に接したらどうなるだろうか。
私たちは、猛然と許せない!と思うかもしれない。
自分なりの正義から、何か事を起こすかもしれない。

けれども、報道が正しい、と誰が決めたのだろうか。
常に報道は真実を流している、と誰が保証したのだろう。

もちろん、世界の真実を伝える報道もあるだろう。
高い志を持って、伝える人たちもいるだろう。
だけど、そうではないものを、私たちは気づくのだろうか。
そういう危うさを、情報はたくさん孕んでいる。

たくさんの書物に触れて、読んでみるというのは、
そういった想像力を膨らませ、見極めるということである。
絶対的な正しさなど、この世界にはない。
正しさの定義など、人それぞれ違うからである。

たとえば、
謝る、ということは、よい行いだと思う。
でも謝れば許してくれる、というのは、間違ってる。


想像力、というのは、人間がもつ最大の武器である。
想像力のない人間は、最大の武器をもたない。









え?想像力は、どこに売ってるかって?
そんなの本の中に、たくさん転がっているもんよ。
いやってほどにね。
その中で、あなたは出会うべき人に出会うはず。
その人が、教えてくれるよ。
想像力ってやつをね。
それから、あなたの知りたいことも、ね。

え、あたしの云ってることが論理的すぎて、解からない?
それぐらい、個々に考えておくれよ。
考える、てことをしなかったら、人間の何がいいのよ?
ちっとも、面白くないじゃん。

物事を一方的に捉えて、こうだ!って思うのは、つまらない。
もっと柔軟に、しなやかに、考えたほうが素敵でしょ。
それに、想像力の欠片もないと、誤解をするし。
だからさ、本って大切だ!って云いたいわけ。


大体、あたしはこれぐらいのことを
悠然と議論できる人が好きなの。
うん?そんなのどうだっていい!、って?
あ、そう!
ふーんだ!!!










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愛は、無色透明のうにょっとしたアメーバみたいな
そんなもんなんだろう、と前に書いたけれど。
今でも、そう思っている。
あるんだか、ないんだか、よく分からないし、
あったとして、それを確かめることは難しい。

愛しているか、愛されているか。
そんなことは、よく分からない。
けれど、愛というものを考えたとき、
私の中では価値観や、時間や、その人生を
一緒くたにしなければならない、ってわけじゃない。

私が誰かになれないように、
誰かも私にはなれない。

こうしたい、という気持ちがあるのなら、
もう、違う人間として認めることしかできない。
それが、もしかしたら、
愛する、ということの一つなのかもしれない。
それが、愛ってやつなのかもしれない。

自分の愛する人を、ありのままに認めるって難しい。
人とはかくあるべき、なんていうのもあるし、
こうしてほしい、なんていう願望もある。
だけど、なかなか自分の期待通りには応えてくれないし、
いとも容易く傷つけられることだってある。

愛するってさ、それが本物ならば、
決して相手を傷つけることはしないと思うんだ。
愛していても、もし利己的になってしまったときには、
その愛は、自分のためだけに向かっているのかもしれない。

容易く傷つける人の大事だ!大切だ!っていう言葉が、
まるで、自分に唱えてる呪文にしか聞こえないときがある。
本当の愛はどこだ?
愛って奴は、どこに行ったんだ?


だから、私は信じたい。
大切な人を、心から思いやろうと思えたときに、
その愛だけは、真実だって思いたい。
決して、その愛は何も傷つけたりしないって信じたい。

あなたの愛は、本物ですか。
あなたの愛は、真実ですか。








私の愛、ですか。
何処にあるのかは、私にも分かりません。
だけど、そこらへんにいっぱい置いておきます。
愛なんてものは、減るもんじゃないし、
とりあえず、どこを向いたとしても
愛を感じれるようにね、いっぱい置いておきます。
それでも、私にだって愛を感じたいときはあるのですよ。

そんなときは、とにかく、
すべてを愛しまくります。

だって、愛さなくっちゃ、愛してくれないものだから。

愛が動物なら、
いつだって、
そっぽを向いていて、
少しもこっちを振り向いてくれなくて、
振り向いたと思ったら、
すぐに噛み付くような、
なかなか凶暴なやつで、
飼いならすことなど、
到底できない生き物だと思うんだよ。


それが、私の考える愛ってやつです。










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私は、人の顔がなかなか覚えられない。
何度も何度も思い出そうと試みるも、すごくあやふやで、
えーっと・・・こんなんだったような??みたいな。
知ってる顔に、色々足したり引いたりして、
結局、こんなんじゃない!!と、なってしまう。

2~3度ぐらいじゃ、
会っていないときに思い出すことができない。
だから、顔を思い出せないうちは、
私の中では、知り合いと云うカテゴリになる。

そうそう、少し話したとか、会ったことがあるとか、
一度だけ食事したことがある、
というだけで友達だ、という人がいる。
あれは、どうかと思うな。
友達って、そんな簡単じゃないだろー

私が一人でいる時間は、ぐるっと友人たちの顔を思い出す。
何してるかなぁー、
あたしは今、暇なんだけどヒマじゃないしー、
あ、でも緊急にはいつだって会える用意はできてるぜ!
と、勝手に話しかける。


友人たちと友人になるまでは、
誰かのために泣く、だなんて、
馬鹿げてる!と思っていた。
哀しみは、その人だけのものなんだ、
って思っていた。

だけどさ、知らない合間に、
そっと、教えてくれたんだ。
喜びだけじゃない。
哀しみも、分かち合えるんだ。
ってことを。

私が泣かない分、誰かが泣いてくれている。
私が弱くならない分、誰かが弱くなる。
私たちは、独りじゃないから。
ちっとも、独りじゃない。

だから、そうだよね?
手は、ずっと、繋がったままなのです。
たとえ、どんなに遠くに離れても、
私たちは、その手も、あなたも、
忘れたりしないのです。

きっとさ、それを『友達』っていうんだ。







たとえばさ、
今日は、そんなふうに思える友達が
いないかもしれない。
だけど、
明日は、互いにそう思える友達が
見つかるかもしれない。

やっぱり、
今日を生きる、ってことは、
明日も生きる、ってことだから。

それって、
友達が教えてくれる、
とっても大切なこと、
なんだよ。