息子に呆れる瞬間というのは、親としては
現実的に自分の子供なのか疑わしいと思ってしまうものである。

私が大切に取っておいた、アクセサリーの箱を使おうと開けると
息子が隠し入れた蝉の抜け殻がわんさか出てきたり。
赤ちゃんの頃には、自分のおならに驚いて泣いてみたり。
洗濯物を回していると、もの凄い轟音が鳴り響いて開けてみると
息子がポケットに隠し持っていた変な石がゴロゴロでてきたり。
友人の娘のトイレまで、勝手に付いていってしまったり。
・・・・息子は大丈夫か?という親心を砕けるように決定打を奴はやってしまった。

曾ばぁちゃんの家に行ったときのことである。
あれは確か、4歳のとき。
息子はトイレをしに行った。
小の方だったので、もちろん立ってする。
お尻の半分ぐらいまで、ズボンを下ろすのが彼のスタイル。
しかし、いつまで経っても小はチロチロ出て来ない。
あれ?と思った息子は、できる限りの力を入れてみた。
そのとき、力を入れて出たのは小ではなく・・・・ウ◯コかよ!!
コロッと落ちてしまったウ◯コにびっくりする息子・・・・
さすがの息子もボー然と立ち尽くし、自分のウ◯コを凝視していた。
思いがけず飛び出したそれは、力の入れどころ違いだと気づいたようだった。
いきなり放り出されたウ◯コは、その後、大人の手によって片付けられました。

・・・あの出来事を、息子が記事にしろとうるさいので載せさせて頂きますが
お食事中だったらごめんなさい。
また不快に感じた方は、申し出て下さい。
ただ、息子は武勇伝のように今でも語ります。
そんな息子ですが、これからも宜しくお願い致します。
空

詰まってしまったものは、なかなか取り除けない。
喉に刺さった魚の骨だって、一度嫌な思いをすれば食べるのも億劫になる。
そんな風に、人の気持ちでさえも詰まってしまえば簡単には解消されない。

もし人間の感情が単純明快であれば、誰も迷ったり悩んだりしないだろう。
目の前にある事が全てで、耳にした言葉が全ての気持ちを物語るもので。
誰かを疎んじたりも、何かを不信に思う事も、争いごとも起きたりなんてしない。
現実では単純な出来事でさえ、複雑な心境を呼ぶ。
起きてしまった出来事は、思い出すことはなくなっても忘れたりはしないのだ。
私は過去に、私の人生において本当に大事な人、2人を心から憎んだ事がある。
憎悪という言葉は、そのときに身を以て知った。
私の中で、三つの選択肢しか用意されていなかった。
どちらかを失って憎んだままでいるか、
私が大人として許せるようになるまで離れているか。
それとも2人を責めてメチャクチャにしてしまうか。
幾日も悶々として、私は悩んでいた。ずっと。
人を心から憎むというのは、どれだけ自分の醜さが露呈されてしまうのだろう。
私は自分が恐くて恐くて、そんな自分を隠し通す力がなかった。
こんなに自分が醜くて、酷い人間だと誰が思うだろうか。
そんな風に醜くさせる2人がまた許せなくて、そう思う自分がまた醜くて。
無限にそれは繰り返してしまうようだった。
頭の中で、どうして?という疑問がグルグル廻っては答えは一向に出ない。

その時に、それについて責められたらどんなに楽だっただろう。
笑顔で取り繕わずに泣ける事が出来たなら、どんなに晴れやかだったことだろう。
結局、私は自分が許せるようになるまで離れているしか出来なかった。
たった一言の一瞥も、怒りも、何もぶつける事はしなかったのだ。
大事な人を失いたくないというより、考えた末に2人のいない人生を
私には想像することすら出来ないと思った。
心から誰かを憎むというのは、同じぐらいに哀しい気持ちがある。
今でも私は忘れたりはしないし、私が死ぬまで其処にあるだろう。
でも今なら、それを言葉にすることも表現することも出来る。

そうやって、私は今も此処に佇んでいる。
おかしな事に、本当の哀しさや愛しさ、憎むという感情、苦しみ、
そして幸福感を心から味わっていく事ができるのは、幸せな人生かもしれないと思っている。
いつかは、このぽっかり空いてしまっている穴を
大事な2人と一緒に少しづつ埋めていけることができたらいい。
きっと時間は、私の味方をしてくれるはず。
じんべえ

出来れば、優しい人間でありたいと思う。
けれども優しいとは、決して優しい言葉を吐く人間ではない。
人に優しさを配る人間は、大抵自分がどれだけ人に尽くしたか、
どれだけ心配りをしてきたか、メモに取っているのでは?と思うほど覚えているのだ。
私には、そんな優しさを優しいとは感じることはない。
何でもしてあげることや、何でもフォローする人はイイ人ではある。
そういう優しさを身につけたいわけでもなく、イイ人になりたいわけでもない。

少しづつ、歳を重ねるから滲み出てくる人間的優しさが欲しいのだ。
私の義母は、つまりTADママは今日こんなこと云った。
『もしかしたら怒るかもしれないけれど、
 あなたの息子は、私たちにとっての初孫なのよ。
 だから、今まであなたがやってきた育て方はあるかもしれないけれど、
 おじいちゃんやおばあちゃんとして、孫を甘やかしたいものなの。
 高価なものを欲しがったら、私たちにねだるようにしてちょうだい。
 ご褒美としてだけ与えるのではなくってね、祖父母に甘えるってことも
 大事なことなのよ。その分、コミュニケーションも取れるでしょう?』

人を受容する、ということは立派なことだけれども容易ではない。
だけども義母はいつだって、私たち親子を支えてくれている。
あの言葉を貰ったときに、私は言葉にならなかった。
なんだか胸が、一杯いっぱいになってしまった。
血の繋がりとは、何を意味するのかは分からない。
そして私が義母と同じ立場に立ったとき、同じ事を云えるのか自信もない。
人を受容することや優しさを配る事は、己が強くなければ出来ない。
私もいつかは、義母みたいな母親になりたいと心から思った。
優しい人間とは、そのままの誰かを受容することでもある。
それは受容したと、意識して生まれるものではないと思う。