何年かぶりに、更新します。
この記事を誰にも見つからないことを祈って。

それでも、記事を更新しようと思ったのは
私は、もう終わりにして新たに始めようと決心したからです。

数年経って、いえもう10年近く経って
私はきちんと大人になりました。
大人になって、もっとたくさんのことが
穏やかに凡庸な幸せの中で収まっていくと
夢を見ていました。

けれども、それは間違いでした。


少しも、穏やかな暮らしを望めませんでした。
私の隣にあるものは、常に哀しみでした。
憤りでした。
悔しさでした。
ボロボロになった自尊心の中で、
信じていたいというすがるような気持ちでした。

でも、そうじゃなかった。
ずっと本当は分かっていたのに、そうではなかった。

それなのに、やっぱり生きていかなくてはならない。
私の人生は、まだ続いていくのです。

そう考えたときに、やり直さなくてはと思いました。
泣いている場合じゃないと気づきました。
誰になんと言われようと、思われようと、
私は私の人生に責任がある。
私は、私の人生を幸福に終える義務がある。

だから、ここに戻って宣言しようと思います。

もちろん、楽しい思い出も素晴らしい出来事もありました。
それらを差し引いても、私はいま持っているものを
すべてを捨てていきます。

失敗ばかりのバカな女だとお思いでしょう。

だけど明日を生きるために、今日を変えていこうと思います。
そんなふうにして、私なりに
私の人生を進めていこうと決心しました。


さようなら、昨日の私。
こんにちは、明日の私。

いつか、最期のときに
私は幸福だったと云える日まで。


もう泣かないと決めました。
















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今日、空がぐんっと高くなって柔らかい風が吹いた。
秋になった。とうとう、秋になった。
昨日、突然に秋は好き?って訊かれたとき、
好きって答えた。
このセンチメンタルな季節。
私は、自然と好きという言葉が出た。
もうすぐ、私も誕生日を迎える。


今日のこの記事で、450回目となった。
このブログを始めたときに、
私は、私を知らない誰かに、
レスポンスしてもらえたらいいな、
という淡い期待を持っていた。

誰か、私と同じような気持ちになって、
誰か、私の心に重なってほしい。
誰か、応答して。
そう、思って。
私の心に応えてほしい、って思ったんだ。

だから、応えてもらったとき。
本当に、本当に、心から嬉しかった。
この空の下に、あなたがいる。
それだけで、私は嬉しかった。
この空の下に、私もあなたもいる。

もし、私に勇気があったなら、
私を知らないあなたに、切々と、
聞いてもらうことなど、必要なかったかもしれない。
意気地のない私の心の中を、
あなたに聞いてもらいたい、などと思わなかったかもしれない。

こんなに長い間、たくさんの言葉を紡いできました。
私のブログを一度でも読んでくださった方、
本当にありがとう。

いつも、読んでくれた方。
私には、あなたが必要でした。
あなたの存在が、
私を、ときどき、哀しませたのも事実です。
私の、少しも清らかでない心の中をみて、
嫌われたくないな、と考えたこともあります。
でも私は、やっぱり、あなたに聞いてもらいたかったのです。
どんな言葉であれ、
どんな表現であれ、
そのときの私、でした。
最後まで、私の屁理屈に付き合っていただき、
本当に感謝します。
ありがとう。

今日で、私のブログは最後となります。
さようなら、の時間がきました。
ありがとう、の瞬間でもあります。


私を、いつも助けてくれてありがとう。
とっても、感謝しています。

また、どこかで。
さようなら。











さてと、そろそろ行きますか!!!!













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私の記憶を遡ると、初めの記憶が、実は生後8ヶ月からある。
私の嫌いな離乳食を、なんとか嫌いだと伝えたくて、
言葉をもたない私は、不味いという顔をしたり、
舌を出して、一生懸命に表現をした記憶だ。
なんで分かってくれないの?と、思ったのだ。

三歳も四歳も、ある。

嘘だ、と思う人もいるだろう。
けれど、私の記憶には残っていて、
それを、母に確かめたこともある。
もちろん、妄想ではなかった。

私が子供の頃は、大人という生き物が信用ならなかった。
大人は、子供が何でも分かっているとは思っていない。
子供には、理解できないことがある。
そう、思っている。

難しい言葉の意味は分からなくとも、理解はできるのだ。
大人って、ばかだな。
これが、私の子供の頃の大人への感想だ。

私が大人になって、子供じゃなくなったとき。
とんでもない世界に飛び込んだものだ、と思った。
反面、大人の下で生きていかなくていい、と
思ったのも確かだ。

この世界で自分なりに生きていきたい、と思ったとき、
子供じゃ不便だ、とは思う。
でも、子供は大人より偉い。
大人みたいに、瑣末なことにつまらない考えなど持たない。
大人が失ったもの。
それは、私が失ったものでもある。

子供が、大人びているからといって、
その子供が、大人のように生きていけるわけではない。
子供は、子供が甘えたいときに、
甘えられる誰かがいなくちゃ、ダメだ。
子供には、それが必要なときがあるのだ。
そして、甘える、ということは、
それだけの信頼がある、それができる、ということなのだ。






私は、多分、かなりひねくれている。
それに、すごく、理屈っぽい。
それから、清い考えは持っていない。

私の正しさは、曖昧だし、
悪だって、よく分からないし、
信念も、持っていない。

でも、ひねくれ者だから、
正しさも、悪も、信念も、
そんなものは、常に本当とは限らない、
と思ってる。
常に本当じゃないことなんて、
重要じゃない。

重要なのは、いつだって大事に思うもの、なんだ。


こんなふうに、時々、自分について考える。
どんな人間で、どんなことを思って、
どんなことを考えて、どんなことが大切なのか。
どうして、それが大切なのか。
私自身を知らなければ、何も分からない。
そう、思ってる。


もし、私を心から愛してくれる人がいたのなら、
私以外のすべてを捨ててほしい、と思ったりもする。
私のてっぺんが、あなたで、
あなたのてっぺんが、私。
それだけで、まわる世界に行ってみたい。
何ももたない、あなたと私の世界。
それが、叶わない願いだとしても、
それぐらいの夢もみたりする。

すごく合理的に物事を考えたりするくせに、
とんでもない妄想をすることも、よくある。
私、あたし、ワタシ。

私の明日を、思う。
明後日を、明々後日を、思う。
そうやって、おばあちゃんになるんだ。


私、可愛いおばあちゃんになる。