親鸞聖人の「自然法爾」 | 明日通信

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京都・大谷廟山門

 

 「自然法爾」、“ジネンホウニ”と読みます。浄土真宗の開祖・親鸞聖人のことば(法語)です。

 浄土真宗に「他力本願」ということばがありますが、「自力を捨て、如来の絶対他力に任せて生きる」ことを言ってます。

 

 ただ「自力でなく他力に頼る」という意味が疑問で若かりし頃、色々調べてきました。

 生れた時から浄土真宗・安芸門徒、数え切れないほどお説教に耳を傾けてきました。それでも「他力本願」の言葉に抵抗がありました。そうした中で教わったのが「他力とは、我が意、我が力であくまで己にこだわり、自我を主張して生き、まわりと争い、まわりの人やものを傷つけていきるのではなく、如来の絶対他力に任せて生きる自然体」と言うことでした。

 

 それでもまだ素直になれなかったのが「如来の絶対他力」、神仏に頼るのが正しいのかでした。

 若くて尖ってたんです。

 

 今日の能天日記に冗談ぽく書いた「まだ、もう」や、自力だとか他力だとかのこだわりを歳を重ねるとともにやわらかく受け止められるようになり、「あるがまま、淡々と生きるのが『自然法爾』」と気づきました。

 

 こう解釈すると、日ごろ僕の好きな生き方としての言葉、

 老子の「無為自然」(ありのままに)、

 禅の「一切有為法 如夢幻泡影」(この世のすべてはじったいがない『空』、だからことやものに執着せず、淡々と淡々と生きる)に通じ、

 

 何より我が大切な人生訓としている「流水行雲」到るのです。

 水が流れるがごとく雲が行くがごとく、淡々と淡々と、こころ穏やかに眺める――景色はいいもんですよ。