⑥川柳にみる「江戸のたべもの」テンプラ | 明日通信

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⑥ 川柳にみる「江戸のたべもの」テンプラ

 

 テンプラが歴史上、最初に出てくるのはいい話ではありません。あくまで「説」らしいのですが、徳川家康が死んだ原因が「テンプラを喰った」ためとか。家康に目をかけられた京都の貿易商で本能寺の変で岡崎へ逃げ帰る際、あの「伊賀越え」を手伝った茶屋四郎次郎が、大阪で注目の新しい強壮の食べ物をつくって食べさせた。それで食あたりし死んだというのです。真相は不明ですが、家康は癌だったの説が有力です。司馬遼太郎の「覇王の家」でもある意味曖昧です。

 

 それはともかく、家康に遡ること豊臣秀吉の時代、懐石料理の献立に「テンポウラ」というのがあったらしいです。ポルトガル語で輸入された料理、製法は、「胡椒の粉、肉桂の粉、丁子の粉、生姜、葱(ひともじ)、にんにくを細かく刻み、鶏を作りて、鍋に油入れ、この六いろを炒りて鶏をいれ、また炒り、そのうえ梔子(くちなし)水に染めて、それにだしを入れ………」と書かれたいます。ややこしい……。

 

 今日のテンプラとは似ても似つかない代物で、南蛮料理全体の口称だったらしいです。それを時代を経ながら日本人の口に合うように調理し直したのかも。

 

 テンプラを「天麩羅」の字を当てたのは山東京伝とか。でも、あまり高級な食べものではなく屋台で食わす庶民の食べ物として人気になり広がったようです。「一つ四銭にて毎夜売り切れるほど也」と。

 竹串で刺していたものもあり

 

   天麩らの店に蓍木(めどき)   注・蓍(めどぎ、し=筮竹のこと)

 

   てんぷらの指をぎぼしへこすりつけ

 

 低級なたべもので客もはしたなかったらしいです。でも今はピンキリですね。

 

   参考・ 浜田義一郎著「江戸のたべもの歳時記」(中央公論社刊)