厳しい試練が待っていた | 明日通信

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あすへ...

 14時46分、あの日の同じ時刻の時計の針を、二階の自分の部屋でみていた。朝、打ち合わせのために外出、終わって“寄り道”せず帰ってきた。

 

 失礼を承知で言わせてもらうと、あの衝撃の記憶は薄れつつあるが、会社の仲間、家族、関係先が例外なく被災され、阪神淡路大震災の時同様、救援に取材に追われる日々を味わった。

 

 僕にはもう一つ大きな試練が待っていた。3月、新聞社の年度末決算の締め切りを20日後に控えた決算計画の誤算だった。当日、東京の役員も出席させ計画を上回る最終の数字を確認し早々会議を終了、コーヒーを飲みながら談笑していた時東日本大震災が発生し、混乱が起こったが新聞など発行は問題なかった。ただ、予定の広告が事実上キャンセルになってしまい、減ページによって売り上げや利益計画が立てられず、経験したことがない減益を強いられることになった。

 

 当時、親会社を中心にグループすべての社員に、利益計上に対する報奨制度があり手渡されるはずの報奨金の見通しが立たなくなってしまった。天災止む無しとはいえ赤字決算はトップの責任。ただ手を打つにも残り日数20日。休日を入れれば実質二週間もない。幹部と頭を寄せながら打てる手をあの手この手と打った。優秀な幹部の努力もあって暦が4月に代わる寸前、黒字決算、わずかだが報奨金を渡せることになった。

 

 ただ、経営は、被災救援と新聞発行で通常のリズムを取り返すのに数年を要し、厳しい試練に曝され続けたのを昨日のことのように思い出す。