昨日、思い出の記で、生まれ故郷の呉(広島県)を舞台にした長編アニメ映画「この世界の片隅に」を鑑賞して、丁寧精緻な表現と幼時ながら映画と同時進行で育ち、脳裏に刻まれた戦中戦後の記憶を綴った。
綴ることにより当時の記憶や体験したことによる感慨が次々湧いてきて、その思い出をランダムに書き出してみることにした。
終戦当時2歳余だった僕に、戦争の恐怖は静寂で、夜、何本もの強い光が空に交差しながら動き回る光景(探照灯の光)と静寂を破る、つんざくような音だったが、それよりもっと心に残るのは寂しさ、悲しさだった。
さすがに1歳、2歳の記憶は薄い。薄い分だけ怖さは減殺されているのだろう。それより戦後の焼けただれ、廃墟になった呉の軍需工場の無残な姿だったが、それ以上に寂しく、悲しかったのは次々帰ってくる白い布にくるまれた白木の箱だった。友人の父親が遺骨となって帰り、友人が納屋の奥で声を殺してないており、一緒に泣いたことがあった。友人は写真でしか父親を知らず、一度は膝の上で抱かれたのだろうがあまりに幼過ぎてまったく記憶がなかった。
このころから頭や顔が焼けただれ、手の指がくっついたり体を包帯でぐるぐる巻きにした人たちを日常的に見るようになった。ピカドン(広島の原爆)の被災者だった。憎むべき戦争が次第に焼き込まれていった。
余談だが、天気のいい暑い夏の日、「もう、外であそんでいい」ということで、近くの橋のたもとの川へ姉に連れられ泳ぎに行った。泳ぎ場は吃水地帯。海から100m上流で潮が満ちてくれば数mの深みになる。その時は子どもたちの腰のあたりまで水があった。僕は橋の袂から川へ下りる石段に座らせられてみんなを見ていた。水に背丈も届かず、泳ぐことも出来ず、姉に抱かれて水浴びする時だったんだろう。その時、石段を駆け降りる子どもがいて、僕の体にぶつかりながら水に飛び込んだ。僕ははずみで水中に投げ出されてしまった。瞬時、見ていた大人に救い上げられ事なきを得たのだが、数秒間の出来事だろう。水底から橋の上で見守る人たちが揺らいでいるのを一幅の絵のように覚えている。
多分、あの日が8月15日、終戦の日だったのだろう。きょうだいに訊ねると「多分」という返事が返ってきた。「終戦の日」の思い出である。