「この世界の片隅に」の呉のまちが懐かしく…… | 明日通信

明日通信

あすへ...

 先日、18日の日曜日夜9時から、ケーブルテレビで放映された長編アニメ「この世界の片隅に」を鑑賞した。こうの史代さんの原作(漫画)を片渕須直さんが監督、長編アニメにして映画化したものだ。

色々な賞を受賞し、作品として激賞され内容も紹介されていたため映画館で鑑賞のつもりだった。が、何が理由だったか逃してしまい、次に観る機会を探していた。なにせ主人公の浦野すずさんが嫁いだ呉は僕の故郷。それに北条周作さんと結婚、北条すずとなったのが19年2月、僕が生まれて9カ月の時、ドラマは同時進行していた計算だ。

片渕監督は制作にあたって何度も何度も呉や広島を訪ねて調べ、街並みに始まり山や港を忠実に表現したとのことだった。それらを確認する楽しみもあった。

いや、恐れ入りました。脳裏に残る街や景色そのままなんです。と、いっても、すずさんの嫁いだ北条家は上長の木。僕の生まれた町は直線で7、8㎞離れた島の中にあり、当時、呉市ではなく安芸郡音戸町。それにまだ赤ん坊で、呉のまちを見て記憶として留められるようになるのはそれから5年後、戦後の昭和23年頃だ。

ただ、上長の木と音戸の8㎞の間に呉の軍港があり、映画で、山の中腹の長の木から見える数㎞先の呉の軍港が昭和20年、敵機の爆撃や機銃掃射を受け燃え上がるシーンがあるが、そのシーンの真向こう数㎞に島の音戸があり、同じ“地獄絵”を対面から島の住人は見ていたことになる。

といっても、すずさんの長の木と音戸では危険度が格段に違う。島陰に軍艦が隠れているし敵機は軍需工場、軍港とともに軍艦や輸送船が出ていくための海路を潰すため、島も標的にされていたらしい。だから敵機襲来で警戒警報が発令されると防空壕へ一目散が日常だったと聞いた。

いやいや、聞いただけではない。僕もかなりの部分を記憶している。というと「2歳の赤ん坊が覚えているはずがない。教えられた話を自分の記憶と間違えているんだ」とわらわれたことがあった。が、背負われて布団をかぶり防空壕に逃げたことや、防空壕でどんなものにくるまれ、親や姉、兄がどんな形で蔽いかぶさってかばってくれていたか。それだけではない、呉の軍需工場が爆撃で燃え上がり真っ赤に染めていたこと、火の粉が雨のように降り、男たちは竹ぼうきを持って屋根の上に上がり火の粉を払う、女子供はその火の粉を下で待ち受けバケツの水で消しまわる。僕は縁側に一人置かれ、見ていた。その家は3、4歳頃までしかいなかったが、部屋の間取りや籐の寝台がどの場所に置かれ、丸いちゃぶ台がどこに、親兄弟の座る位置や、家族の出来事を起こった順に事細かに記憶している。

その記憶力で、高校を出るまでの18年間、呉のまちを「この世界の片隅に」に出てくる街並みを思い出してみると、まったくと言っていいほど重なる。白木リンのいた遊郭は噂の“変なもの”見たさに友人と駆け抜けたことがあったがそのまま、確か「13丁目」と呼んでいたように覚えている。

すずさんの(上)長の木は呉市営の循環バスで行ったことがある。その右手の山道を登ると呉で一番の高峰「灰が峰」(戦時中、高射砲があった)、見下ろすと呉の市街地の向こう右手が船が浮かぶ呉港、左手が宮原・休山からなだれ落ちるような急斜面の下に戦艦大和など建造した造船所と工場群、その手前に練兵場と鎮守府などが見えた。中腹の長の木からまさにあの眺望だ。

8月6日朝、轟音とともに激しい地揺れが起こった。しばらくしてすずさんの家の左手、段々畑の山の上に黒くもが顔を出した。あの方角が広島、忠実に描かれていた。身震いするほど正確な描き方だった。

昨年11月末、呉の次姉の連れ合い、義兄が他界し告別式のため帰呉。朝日町近くで葬儀があった。60年余ぶりのアニメに出てくるまちは、あまりに変わり過ぎていて記憶のかけらもなかったように思った。

ちょっぴりのんきで、ちょっぴりかわりもので、控えめなすずさんが、僕の思い出の呉を「世界の片隅に」して、ひっそりと北条周作さんに寄り添い生活していたんだな、それが、僕が呉で過ごした18年間と重なっていることに限りない懐かしさを覚えた。

忘れられないアニメ映画「この世界の片隅に」になった。