真田幸村――大坂の陣の立て役者……「九度山抜け」の秘策とは? | 明日通信

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  「戦国武将」101人がわかる!(小和田哲男著)三笠書房

 

戦国武将の中には、古文書や記録などの信憑性のある史料に出てくる名前ではなく、軍記物や、果ては講談などによって知られた名前のほうが有名になった者が何人かいる。

北条早雲・朝倉敏景・真田幸村の三人はその最も著しい例であろう。

北条早雲の場合、自ら北条早雲と名乗ったことなど一度もなく、北条姓すら、子の氏綱の代になってはじめて名乗りはじめているのである。古文書の上からは、伊勢新九郎盛時、出家して早雲庵宗瑞というのが正しい名前であったことが確実である。

朝倉敏景も、「朝倉敏景17箇条」で一躍有名になったが、これも「朝倉始末記」などに敏景とあるだけで、古文書の上では敏景を名乗った証拠はない。むしろ、孝景あるいは教景(のりかげ)を名乗っていたのである。

さて、真田幸村はあまりに有名であるが、確かな史料では幸村の名乗りを発見することはできない。古文書に出てくる名は信繁である。

混乱するので、ここでは幸村として話を続けるが、大坂の陣の立て役者でもあるので、彼に関する逸話は非常に多い。たとえば、蟄居中の九度山で、真田紐を作っていたというような話もあるが、どこまでほんとうなのかわからない。

古川柳に、「村中を酔わせて真田ずっと抜け」というのがある。慶長19年(1614)10月9日、幸村一行が九度山を抜けて大坂に向かったときのことをさしたものである。

当時、幸村らは浅野長晟(ながあきら)によって監視されていたが、その年の10月1日に、家康が大坂攻めの命令を出したという情報を得、何とか蟄居中の九度山を抜けて大坂に入りたいものと秘策を練り、ついに、近在の村役人たちを招き、酔わせて警戒の目を突破することができた。

大坂城に入った幸村については、真田丸における活躍でよく知られているが、幸村は、もと大名ということで、長宗我部盛親・毛利勝永とともに三人衆と呼ばれ、籠城軍の中核であった。