斎藤義龍――盗らなければ盗られる!「覇者の論理」 | 明日通信

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「戦国武将」101人がわかる!(小和田哲男著 三笠書房)

 

父道三を長良川畔に殺した斎藤義龍は、すでにその前に弟たちを殺している。戦国時代によく使われた手で、織田信長も弟信行を殺すときにこの手を使っている。つまり、病気と称し仮病で寝ている枕辺に弟を呼び寄せ、見舞にきたところを家臣が斬り付けるというものである。

こうして弟を先に殺していることからみても、道三が義龍よりも、弟の孫四郎義重をかわいがり、家督が弟に譲られそうになったのを察知した義龍が機先を制したと解釈するのが穏当であろう。

諸書に、義龍は身長が六尺四、五寸(約2メートル)もある巨漢で、馬に乗っても足が地に着いてしまうほどであったと伝えられている。事実、現在、岐阜市梶川町の常在寺に所蔵されている斎藤義龍画像をみると、肥満体の巨漢で会ったことがうかがわれる。

もっとも、馬に乗って足が地に着くといっても別に驚くほどのことはないかもしれない。というのは、馬の大きさそのものが、当時と今とでは違うので、今日の競馬馬の感覚で考えるのはまちがっている。戦国武士、とりわけ兵農未分離の武士たちの馬は、平時は農耕馬、戦時に軍用馬として用いられ、足は短かったのである。

話が横道にそれたが、馬の足が短かったからこそ、騎馬武士と足軽とが同一行動をとれたといえよう。有名な信長の桶狭間の戦いにおける出陣風景、すなわち、一騎だけまっ先に熱田神宮に駆け込み、続いて足軽たちも走って到着し、そこで陣容を整えることができたのである。

とにかく義龍は大男であったことは事実らしく、道三は彼をきらっていた。しかも癩病にかかっていたという。義龍が死んだのは永禄4年(1561)5月11日、35歳の若さだった。当然、死因は癩病ということになるが、「大かうさまぐんきのうち」によると、おもしろい事実が判明する。

それは、義龍と妻の一条氏、さらにその子の3人が同じ日に死んでいるのである。これは単なる病死ではなく、死の直前、必死に護摩をたかせていることからも、何か義龍親子3人に憑き物がついて、それによって殺されたのではないかといわれている。

憑き物に殺されたなどというと、「何を非科学的な」と反発を食いそうであるが、父を殺し弟を殺し、また、父道三以来の処刑の方法――罪人を釜に入れ、その火を罪人の縁者にたかせる――といった悪業の数々からみて、当時の人が悪業の報いとして、何か憑き物に取り殺されたのではないか、と考えても別に不思議ではない。実際の死因が癩病であったにしても、である。