昭和の初め頃、芦屋に伊藤動物園という、私設の、入園無料の動物園があったそうだ。芦屋のくすり 探しの絶好のテーマだ。その人は下の囲みの人物だ。
話は江戸時代に遡る。大阪 道頓堀の隣に高津神社の門前町にある「和漢屋」でひゑくすり という今で云う下剤を創製、発売した。その主人が、和漢屋 初代の伊藤長兵衞である。上の商標写真の左にある名前の人である。
小林製薬のプレスリリーフの商品写真より(2015.3.8)
おって説明するが、ひゑぐすりは明治になって、七ふく に変わる。七ふく と云えば、昭和30年代の初め、毎日放送のテレビのコメディドラマ 「番頭さんと丁稚どん」*のスポンサーの七ふく製薬株式会社のくすりだ。(因みに会社は3年前(2015)に小林製薬にブランドを移譲し、製薬から撤退している)
*脚本が花登筐。茶川一郎、大村崑、芦屋雁之助、芦屋小雁などが演じてた。毎週月曜日19:30-20.00に放映。
この会社の2代目社長の伊藤長兵衞氏が、芦屋の小字 寺田、今日の西芦屋町の一画に、私費を投じて、入園無料の伊藤動物園を開園した(芦屋川の業平橋・大正橋の北に架かる月若橋の西方向の通りに面してあった)。
伊藤動物園については、広報あしや の歴史散歩道 というコラムに2回も取り上げられているので、それを以下のように抜粋しておきます。
広報あしや 歴史散歩道 (平成14年11月15日号抜粋)
昭和初期、その小字寺田の一画に入園無料の私設動物園「伊藤動物園」(通称)がありました。200坪の園内には、ロバ・サル・クジャク・リス・ウサギ、池付の小鳥小屋があり、ゾウの形をした滑り台・ブランコなどの遊具も完備され、手造りの砂山やトンネル(コンクリート管を代用)もありました。 また、動物園の入口には「布袋さん」の石造品もあったと言われています。
この動物園は、七ふく製薬の社長であった伊藤氏が開園したものですが、戦後廃園になったといわれています。・・・・・・・・・・・・
そうなんだ、芦屋には くすり と関係の深い動物園が、昭和の初めのころから、戦後までの間に存在していたのです。芦屋のくすり探しの第二弾を確認することが出来ました。
- それでは、少しこの製薬会社のくすり 七ふく について調べてみましたので、興味があれば、覗いてみて下さい。
参考 :下剤 便秘薬 止瀉薬の「七ふく」について
日本家庭薬協会のホームページに、家庭薬のロングセラー商品の歴史などを解説した「家庭薬ロングセール物語」と云う読み物がある。
太田胃酸、正露丸、今次水、大学目薬、仁丹、龍角散、シッカロールなど43商品が掲載されている。「七ふく」もその中の一つに取り上げられている。七ふくの歴史、由来医、変遷など興味深い。
読むにつけ、七ふくが創製された江戸時代から今日まで、ほゞ同じ処方で広く使われていることに驚きます。芦屋の伊藤動物園の祖先が創ったくすりに敬意を払い、以下その歴史を日本家庭薬協会のロングセラー物語や、ウキペディアの資料を参考に紹介しておきます。
伊藤家初代長兵衞は、大阪・道頓堀の高津神社の門前町に「和漢屋」の主人。創業は1690年元禄3年頃とされている。長兵衞は懇意にしていた漢方医から製法を習い、「毒下し薬ひゑくすり」を創製した。
このくすりは、排泄を促すことで,体毒を外に出すことで、万病が治ると考えられ、淋病の患者も服用した。ひえは冷え症を指すのでなく、難波言葉の古語で「淋病」を意味していたのだと言われている。
高津詣で遠方から参詣する人々の中には、ひゑくすりを土産にする人も多く、口コミにより評判が高まって万病薬として全国に広まると、類似品が出回るようになってくる。
明治の初期、類似品との違いを明確化するために、「七ふく」の商標名をつけ、以後「七ふく・ひえくすり」の名で販売するようになった
七ふくの名の由来は、購入する時、一服分ではなく、七服分買っていく人が多かったことに起因するようだ。その後、七服から転じて、七福神の連想から七福となり、縁起のいい薬と云うイメージが固定化していく。最初の写真はこの七福神が図案化され、商標に採用されて行ったものです。
また、七ふくは七つの生薬を配合した便秘薬で、その処方は300年前の創薬時とほとんど変わっていないと言うから、これも大変な驚きを感じます。
以上