日曜日は昼頃家を出て
骨董市を3分の1くらい見てから
まず映画。
それから展示を2つ。
その2つ目のLIXILギャラリーでの
『 ものいう仕口
白山麓で集めた民家のかけら 』は
私の好きな「みたて」の世界。
(みたて・・見立て・・・通常、
”本来の使い方と違う使い方をする”
の意味だけど曲がった釘を見て
「綺麗だな」と思うのも
見立てと言って・・きっといい。)
でも
「梁と柱をつなぐ木組みの跡
残された木塊から
大雪に耐えた民家を想う」
(DMより)
との言葉にあるように
「仕口( 2つ以上の物を
組み合わせて接合する方法 )」の
構造そのものの面白さに出会いに
観に行く人が多いのかな。
もちろん私も
「構造」を理解して捉えようとして
見る事はそれぞれ一度は試みるけれど
途中でやめるのです。
とても「複雑」な組み合わさり方を
しているものが「いくつも」
あるので。(いいわけー。)
(昔はこういう風に数学的に
空間を捉える事自体も
好きだったけれど・・・なんて
思いつつ。)
でもそれだって無駄じゃない。
そういう「努力」と「時間」を
私に強いる力強さが仕口の
「美しさ」のひとつだろうな。
(映画館で大きな人が手にしてた。)
とは言いつつ、私には
やはり何より「みたて」。
何かに転用する訳ではないけれど、
たとえもう「仕口としての仕事」
をしなくても「美しいから」
そこに「居て欲しい。」
何十年か何百年
がっちり仕事をして来たから
家も「仕口」そのものも
今ここに存在しうる。
(あら。結局はここで
「用の美」に行き着く!)
それで表面は風雪(屋内だけど)に
耐えて朽ち始めている。
でも
他の部材と接していた面だけは
真新しい木材の”それ”だったりして
朽ちたのと新しいのと、2種類の面が
並ぶ様子が良かったり。
やっぱり今日の
やめました。
ここまで「寂れる」(シャビー)の
私にとってはやはり
『 願ったり叶ったり 』なんだもの。
(室内で使うものもあえて
ベランダで風雨にさらしたり
する私なのだもの。)
木材の外れた部分だけを
木工用ボンドで直して乾かしています。