総集編のその先に:大人の麦茶第22杯目公演『その贈りものの酒は封が開いていた』(中) | あるさの日々これ出会い

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大人の麦茶22杯目公演『その贈りものの酒は封が開いていた』、略して「その酒」は、今までのオトムギ公演同様、群像劇です。

そのため、さまざまな人物が、脇役というより、それぞれの背景を持った独立の人格として物語の中に登場します。

それは、(前)に書いた瀬川社長や翼翔(せすな)さんのような、すでにその人物のための物語が別に存在している場合だけでなく、この22杯目公演で初めて登場した人物についても、言えることです。


劇団「大人の麦茶」の作演出家である塩田泰造さんは、物語を作るとき、よく「あて書き(宛て書き)」という手法を用います。

この手法は、物語を先に作ってあとから配役を決める、というやり方の逆で、まず出演する役者がいて、その特定の役者のために役を作る、というものです。


劇作家が「あて書き」をするとき、おそらく頭の中では様々なことが複合的に行われているのでしょうが、とりあえずその現実の過程を少し脇に置いて、あえて「あて書き」をおおざっぱに分類してみると、パターンは2つに分かれます。

ひとつは、役者本人がどういう人間かを考えて、その人の特徴を反映させた人物を書くこと。

もうひとつは、役者の現実の人間像に寄せて登場人物を創造するのではなく、作家がその役者に「こういう人物を演じてほしい」と思った役柄を、その役者にあてて書くことです。


前者の場合、作り出される登場人物は当然、それを演じる役者本人によく似た、あるいは、劇作家がその役者にいだくイメージを反映した人物になります。

しかし後者の場合、例えば劇作家が、とても温厚な人柄の役者に、サイコな殺人鬼を演じさせてみたいと考えてあて書けば、生まれる登場人物は、あて書かれた役者本人からはかけ離れたキャラクターとなります。


とはいえこの二分類は、人間という複雑な生き物と、芝居という訳のわからない企て、その両方の特質をあえて無視した分類で、実際の「あて書き」は、そう単純ではありません。

例えばきわめて精神力が強いと見える役者の中に、本人も気づかない脆(もろ)さがあり、作者が一見すると役者本人とはかけ離れた弱い人物をあて書いた結果、その役者の新しい側面が引き出される場合もあるでしょう。

あるいは逆に、とてもその役者「らしい」役があて書かれた場合でも、芝居とはフィクションである以上、演じられる人物が役者本人そのままであるはずはなく、そこに発生する違和感が、新しいなにかを産み出すこともあるでしょう。



オトムギ22杯目公演「その酒」に登場する、なみちょうさん演じる清広という人物には、なんともいえない魅力があります。

彼はまず、この物語の中に、一種の敵役(かたきやく)として登場します。

白旗姉妹の切り盛りする居酒屋『舌足らず』が、事故に巻き込まれ大きく破損すると、清広は自分が経営する夜のお店の女の子たちを引き連れて登場し、『舌足らず』に恩を売ろうとしてきます。

彼にはすでにこの商店街で、いくつかの店をいわば乗っとって事業を拡張してきた経緯があり、白旗姉妹と常連たちは、『舌足らず』も自分のものにするつもりかと、清広を警戒します。

しかしやがてこの清広は、外部からやって来た地上げ業者のような人物ではなく、この商店街で生まれ育った、この商店街を何とかして再生しようとしている人物であることがわかってきます。


ところで、この人物の魅力を形成しているのは、この後者の「いい人」ぶりだけではありません。

彼には、その立場が明らかになった後にも、ある種のいかがわしさ、怪しさが感じられます。

この人物の過去については、物語の中ではほとんど明らかにされませんが、劇中の他の人物の台詞から、清広が若い頃は相当なやんちゃ(というか不良)だったことが推測されます。

そこからのしあがってきた清広には、おそらく闇の部分があるはずですが、それは地元商店街を守ろうと考えるメンタルと、彼の中で共存しています。


この清広という人物の中に、おそらくはなみちょうさんという役者の持つ人格の一部が反映されているのではないかと、自分には感じられます。

それがなみちょうさんご本人のどの部分であるのか、どんな風に反映されているのかは、うまく説明できないのですが、少なくとも清広から感じられる「カッコよさ」に説得力があるのは、なみちょうさんが演じているからこそなのだと、自分には思われてなりません。



なみちょうさんについて書いているうちに、すっかり長くなってしまいました。

岩田有弘さんの芝居については、項を改めまして、また。


(後につづく)