慶應義塾大学三田キャンパスを散策し、三田演説館や図書館旧館を見学 | アシモモ~のブログ

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アシモモ~自身と慶應大学との関係については、入試を受けに三田キャンパスや日吉キャンパスに行ったことがある程度で、慶應大学に入学することはなかったため、ご縁は全くないと言えますが、この度、ひょんなことから慶應三田キャンパスを訪問する機会を得ました。
(それにしても、法学部の1次試験が通った後に受けた2次試験の面接での圧迫面接ぶりや、そのときに言われたことは今もハッキリと覚えています。)
 
こちらは慶應大学の正門です。二十数年前の受験生だったとき、ここに来ているはずですが、その当時の記憶は残っていません。JR田町駅から大学への道のりの風景を一部覚えている程度でしょうか。

正門を通って南校舎抜けると、小ざっぱりとした雰囲気のキャンパス敷地が広がっていて、左手に大学院校舎、正面には第一校舎、(写真には写っていませんが)右手には図書館が建っています。

 
 
敷地の外れには、国の重要文化財に指定されている三田演説館があります。

概略は以下のとおりです。
・慶應義塾の三田演説館は福澤諭吉によって建設されたわが国最初の演説会堂
・開館は明治8年(1875年)5月1日
・木造かわらぶき、なまこ壁で、日本独特の手法が用いられているが、本来アメリカから取り寄せた図面を基にして作られ、明治初期の洋風建築の極めて珍しい遺構
・規模は床面積191平方メートル余、一部が二階作りになっていて延べ面積は280平方メートル余

普段は中に入ることができないらしいですが、この日はたまたまイベントが催されていたので、少しだけ中を覗いてみました。正面には福沢諭吉の人物画が掲げられていました。 

鬱蒼とした茂みの中に凛として建ち、白を基調としたなまこ壁が大変モダンで、一際目を引く存在感を放っていました。

 

演説館を後にして東門の方へ向かうと、華麗な図書館旧館が見えてきます。
 
概略は以下のとおりです。
・明治45年(1952年)、慶應義塾創立50周年の寄付で完成
・曾禰達蔵、中條精一郎の設計によるゴシック様式建築の傑作
・関東大震災と空襲での損傷を乗り越え、国の重要文化財に指定
・免震化工事を経て、令和3年(2021年)展示館が誕生

↑右から慶應義塾図書館と書かれているようです。
 
 
2階に上がる階段のステンドグラスに目を奪われます。
このステンドグラスは大正時代に制作された原型を元に復元されたものです。元のステンドグラスは昭和20年の戦災で失われてしまい、昭和49年(1974年)に復元されたとのことです。

ステンドグラスの下部に「 Calamus Gladio Fortior」(ペンは剣よりも強し)とあるように、慶應義塾建学の精神をこの構図が象徴しています。

華麗な洋館によく似合うステンドグラスだと思いました。
 
 
2階の常設展示室では、常時100点以上の資料を展示しています。
 
 
 独立自学と書かれた扁額と、福沢諭吉が愛用していたという居合刀が展示されていました。

 
 
こちらは『福翁自伝』の原稿。福沢諭吉が晩年に速記者に対して口述して書き取らせ、さらに自ら加筆した原稿です。福沢諭吉の父・百助が諭吉を僧侶にしたいと語っていたという逸話を紹介し、それが身分の壁を破って出世できるからであると気づいて涙したことを記しています。それに続いて「門閥制度は親の敵」と自筆で記しています。

 
 
西洋諸国の来歴や現場社会のあり方を紹介する著作「西洋事情」の初版です。福沢諭吉の名を確立した実質的なデビュー作です。単なる人物紹介ではなく、西洋社会を支える人々の生活や風俗の実態に着目している点に特徴があります。攘夷論が激しい中で、当初は写本で読まれ、帰国から四年後に出版されましたが。偽版も加えると25万部も読まれたと言われているとか。

 
 
福沢諭吉の告発により5年の歳月をかけて偽版と認定された出版物です。1~3巻は本物にふりがなや傍注を追加、4巻は勝手に追加された独自の内容でした。一度正式な官許が与えられていて、福沢諭吉は著者の権利が保護されないと文明の進展を阻害すると繰り返し抗議しましたが、管轄の京都府が一度官許した非を認めることを嫌い闘争は長期化したといいます。

江戸時代の出版事業は、版木の所有者である本屋が利益を占め、著者には適当に手当てが与えられるだけでした。福沢諭吉は知識の普及には出版の発展が欠かせないと考え、自ら「福沢屋諭吉」を名乗って本屋仲間に加入して職人や材料を揃え、売上が著者の利益になるようにしました。しかし福澤の著作はおびただしい偽版の横行に悩まされました。そこで福沢諭吉はcopyrightを「版権」と訳し、偽版の摘発を政府に要望。著作権という目に見えない権利に関する法整備を促しました。その結果、明治2年(1869年)には出版条例で出版社への専売が定められ、6年後の改正で版権の文言も加わりました。
 
 
明治14年の政変についても展示がありました。明治14年の政変は、明治14年(1881年)10月、憲法制定をめぐる政府内の主導権争いが原因で、イギリス型議会制度の早期導入を目指していた大隈重信が保守派の伊藤博文井上馨の長州閥に敗れて失脚した出来事です。その際、大隈の急進論の黒幕は福沢で三菱が資金源となって政府転覆を狙ったとの陰謀説が流布され、また、北海道開拓使官有物払い下げをめぐる汚職疑惑に対して福沢門下生が激しい政府批判演説を各地で行なっていたことも影響し、慶應出身者は官界から追放された、とのことです。この事件で、慶應出身者は以後、官界ではなく実業界へ進むことが一般的となったとのことでした。
 
 
こちらの修身要領は、福沢諭吉の思想の要点を門下生が編纂し、福沢諭吉が校閲して成立した道徳綱領です。冒頭で皇室に触れていて一見封建的ですが実は形式的な言及に過ぎず、内容は個人の独立自尊をあらゆる道徳の基礎に据えています。そのため、東京帝国大学の哲学教授・井上哲次郎等から教育勅語蔑視、西洋思想への服従統制として激烈な批判を浴び、慶應義塾の外には広まらなかったといいます。

 
 
企画展示室では野球についての展示がありました。早慶戦などの歴史の他、読売巨人軍の選手監督を務めた高橋由伸が六大学野球通算23本塁打を達成したときのホームランボールも展示されていました。この記録は現在も破られていないそうです。

 
 
東門を入ったところの東館の下から図書館旧館を眺めるととても良い眺めです。欧州のどこかの国に来たかのような錯覚に陥りますが、繁った樹の感じが欧州のそれとは異なる気がします。

 
 
こちらは桜田通りから眺めた慶應大学の東門です。正門と比べると東門の方が格調高くて好ましく思います。モモヅマ~も東門の方が好きだと述べていました。

 
次に慶應大学の三田キャンパスに来るときには、「山食」のカレーが食べられることでしょう。
 
 
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