〇国宝級の資料が無料で!
くまもと文学・歴史館(熊本市中央区出水2-5-1)では、12月17日(月)まで、秋季特別展示会「蒙古襲来絵詞と竹崎季長」を実施しています。日本史の教科書で見たことがある「蒙古襲来絵詞」の実物が熊本にやってきています(普段は宮内庁三の丸尚蔵館に所蔵されています)。特筆すべきは、このような国宝級の資料を、無料で観覧することができます。まだ実施していますので、お近くの方は是非!
〇くまもと文学・歴史館
くまもと文学・歴史館は、水前寺公園と上江津湖の間にあります。県立図書館と同じ建物です。水前寺公園から上江津湖に向かう流れに沿って遊歩道が整備されており、紅葉の季節を迎えていました。
くまもと文学・歴史館の敷地内の紅葉も真っ盛りでした。紅葉の赤色の具合が素晴らしいです。
こちらで「蒙古襲来絵詞と竹崎季長」展が実施されています。
くまもと文学・歴史館の敷地内の紅葉も真っ盛りでした。紅葉の赤色の具合が素晴らしいです。
こちらで「蒙古襲来絵詞と竹崎季長」展が実施されています。
〇竹崎季長の活躍
簡単にまとめると以下のとおりです。〇肥後国竹崎郷(現熊本県宇城市松橋町)の出身とされる。〇文永11年(1274年)の文永の役当時、所領争いに敗れて没落していたため、手勢わずか5騎で出陣。〇文永の役では、手勢5騎で先駆けを行い危機的な状況に陥るも、加勢が駆けつけて元軍を撃退。〇文永の役では竹崎季長の武功は負傷したのみと評価され、なんら恩賞を与えられなかった。〇翌年、鎌倉に赴き、先駆の功を認めてほしい旨を幕府に直訴。肥後肥後国海東郷(現熊本県宇城市海東地区)の地頭に任じられた。〇弘安4年(1281年)の弘安の役では、志賀島の戦いや御厨海上合戦で敵の軍船に斬り込み、元兵の首を取る等の活躍をして軍功を挙げ、多大な恩賞を与えられた。〇永仁元年(1293年)、元寇における自らの武功や鎌倉へ赴く事情などを中心に「蒙古襲来絵詞」を描かせ、甲佐大明神へ奉納。
〇展示会の様子
蒙古襲来絵詞は、元軍との戦争に参加した本人が自身の体験を絵画資料として残した稀有なものです。展示会の会場では、詳しく、しかも分かりやすく解説を施したの上等なパンフレットが用意されています(無料)。これをよく読みながら展示物を見学すれば、より理解は深まることでしょう。
会場での撮影は認められていませんので、パンフレットの掲載されている画像から少々掲載することとします。
会場での撮影は認められていませんので、パンフレットの掲載されている画像から少々掲載することとします。
(左)わずか5騎で出陣する竹崎季長。所領争いに負けて没落していたのです。
(右)文永の役の際のシーン。馬の腹や竹崎季長の足に矢が当たり鮮血が噴出しています。頭上に矢や長槍が飛び、元軍が投げた爆発物「てつはう」が炸裂しています。馬が爆音に驚き操縦不能になっており、馬から振り落とされる寸前です。
(左)弘安の役に出陣する竹崎季長は、矢を24本携えています。この後、船に乗り込む際には矢を捨てて3本となります。船に乗せてもらえなかったりして、苦労したようです。馬のお尻の下には馬糞まで描かれているというリアルさ!
(右)弘安の役に際しての活躍ぶりが描かれています。竹崎季長は、蒙古兵を組み伏せ、短刀で蒙古兵の首を切っています。竹崎季長の右腕に矢が命中して血が噴き出し、後方には首から血を流して死んでいる蒙古兵が横たわっています。
展示会では、水中考古学の発展についても紹介されています。今でも沈んだ元軍の船が発見されており、水中から貴重なものが引き上げられています。こちらは「てつはう」。直径約15㎝で、内部には鋳鉄片や陶磁片が詰められ、爆発と同時に飛散して殺傷能力を発揮したそうです。
当時の日本にはこのような武器は存在しなかったので、武士たちは大いに驚いたことでしょう。日本側は、糞尿を煮たものを元軍の船に投げ込んで対抗したりもしたようです。