【京都】南禅寺から二条城、千本通りへ 一条天皇の辞世の歌についても【喫茶チロル】 | Sepia Wind deux

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写真は前回のつづきの『南禅寺』からのスタートです。

で、今日は文章が怖ろしく長いので興味ない方はスルー推奨です💦


『南禅寺 三門』を東側(本堂側)から

Nikon Zf NIKKOR Z 14-30mm f/4 S 今日の写真は前半がZf、後半はiPhoneという感じです

 

さて、前回の終わりで書きましたように今日は、一条天皇の辞世の句について書こうかと。

 

で、まずはその辞世の歌ですが、四つの書物で伝わっており。

出典はそれぞれ、『栄花物語』、『新古今和歌集』、『御堂関白記』、そして『権記』。

 

これは一条院(この頃は上皇でした)が亡くなる直前に詠んだもので、聞き取り辛かったこともあるのか、四つともほぼ同じではあるんですが微妙に言葉が違ってたりしていて・・・。

 

とはいえ歌の中で登場する『君』が誰を指すのか?という論点については前の三つがほぼ同意見なので、ここでは代表として藤原道長の日記である『御堂関白記』に登場してもらいます。

ちなみに『権記』は藤原行成の日記です。

 

『三門』の中から本堂を見やって

 

これも『三門』

 

『本堂』

Nikon Zf NIKKOR Z 14-30mm f/4 S

 

道長説 辞世の歌は彰子に宛てたもの

 

露の身の 草の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる ことをこそ思へ 『御堂関白記』(道長の日記)

(露の身のあなたを 草葉のような儚い現世に残して 塵の世を出てしまうことをどうか分かってください)

 

道長の日記によると、この歌は中宮彰子(道長の娘)が、一条院のそばの御几帳の陰にいた時に読んだらしい・・・。

だからこの歌に出てくる『君』は彰子を指す、というのが前三書の統一見解。

 

定子はもうこの世にはいませんし、現中宮の彰子を残して亡くなるのが心残りである、というのは普通に思いつく話ではあります。

 

 こちらは『本堂』

 

 本堂でお祈りして戻る途中の『三門』

 

さらば『南禅寺』。次はもっと体調のいいときに来たいものです・・・

Nikon Zf NIKKOR Z 14-30mm f/4 S

 

行成説 辞世の歌は定子に宛てたもの

 

一方で行成は『権記』の中で、一条院の臨終の様子を次のように書いています。

 

『一条院のお召で参上すると「私は今生きているのか?」と仰せになる様子は尋常ではいらっしゃらないようだった。午後十時頃、法皇は暫く起き上がり歌を詠んでおっしゃることには

 

露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき 

(露となったあなたを 風の吹く儚く曖昧な現世に置いたまま 塵の世を出てしまうことが悲しいのだ)

 

そのお心は、皇后様(定子)に寄せたものである。但しはっきりとその意を知りがたい』

 

つまり一条院が辞世の歌を詠んだ際、そばにいた行成は、院の辞世の歌における『君』は定子であるとはっきり断定している。

 

蹴上方面に向かう途中にて 湯豆腐の『順正』

 

蹴上インクライン もう降りる気力はありません・・・💦

Nikon Zf NIKKOR Z 14-30mm f/4 S

 

この日の写真ではないのですが初日に南禅寺の交差点がすごく混んでいて、赤信号で停車中の車中から

ナビ画面で白川通方向へ案内されているのがわかりますね

iPhone15

 

定子は一条院が亡くなる11年ほど前に亡くなっています。

当時定子は何事にも悲観しており、その予感が当たったというか、一条帝との3人目の子を出産した直後に息を引き取っています。

 

彼女の死後に手習い文と辞世の歌が三首、見つかるのですが、注目したいのは三首目。

 

煙とも 雲ともならぬ 身なりとも 草葉の露を それとながめよ

((火葬ではないから)煙とも雲ともならない我が身ですが、草葉の露を、私だと思って眺めてください)

 

その手習い文で、定子が火葬を望んでいないことを知った兄の伊周は、鳥辺野の南に霊屋を造り、そこに亡骸を納めることにします。大雪の降る十二月の夜だったそうです。

 

蹴上から地下鉄東西線で二条城前まで

 

二条城東大手門

 

学生時代を過ごした地域でもあり、なんとなくホッとするんですよね二条城近くに来ると

Nikon Zf NIKKOR Z 14-30mm f/4 S

 

いったん髪を切って出家した定子を、一条帝は還俗させており・・・。でも還俗した人って成仏するのが難しいって話で。

しかも当時は出産の際に亡くなった者は成仏できないと考えられていたらしい・・・。

 

この2点から、定子は成仏するのが難しく、火葬にもしてないので煙や雲にもなっていなかったと考えられるわけで。

 

私、少し前に『更級日記』を読んだときにも感じたんですけど、ホント当時の貴族階級の人間は女性であっても、死後成仏して極楽に行くために必ず出家しなければ、という出家願望みたいなのが非常に強かったみたいで。

 

そういう点からも当時誰もが願った成仏すらできない上に、幼い子供を3人残して死ぬことを悟った定子がどれほど辛く心残りであったことだろうか・・・。

 

右がANAクラウンプラザ  左がホテルザ三井京都高くて泊まれませんけどね・・・

 

南門 

 

この通りの南側に『神泉苑』があります

Nikon Zf NIKKOR Z 14-30mm f/4 S

 

そのあたりを踏まえて一条天皇の辞世の歌を見ると、これは定子が残した三首目への返歌と考えられる・・・。

 

定子 『草葉の露を見かけたら、成仏できず現世に魂を残していく私が、それであると思って眺めてください』

 

一条帝 『成仏できず露となったあなたを現世に残して、私ひとりであの世に旅立つことが悲しいのだ』

 

超意訳ですが、一条帝は定子の辞世の歌にも登場した『露』という言葉を重ねている点が重要でして。

 

それに定子は生前、草葉の露が好きだったわけで。

 

私のブログでは何度も登場している『旧教業小学校跡』

私にとっての『神泉苑』はこのイメージなんですよね・・・。『神泉苑前』のバス停がここにあるので

 

京都では有名な『喫茶チロル』

学生時代に何度もこの店の前は通ったものの一度も入ることはありませんでした💦

 

本当は玉子サンドかナポリタンの予定でしたが、朝食も食べてなかったのでお腹が空いていたんだと思う・・・💦

iPhone15

 

たとえば『枕草子』の中では、自邸に引きこもっていた清少納言を呼び戻す決定的な要因となった、いわゆる『言はで思ふぞ』が出てくる段なんかでも。

 

「草ぼうぼうに生えた庭をどうして刈らないのか?」と訊かれて定子付きの女房は「(定子様が)わざわざ露を置かせて御覧になっているのです」と答えるほど、定子は草葉の露が好きだったわけで。

 

他にも『枕草子』では定子が『露』を愛してる様子が描かれているらしく、清少納言とも親しかった行成は当然そのことを知っていたはず。

 

ですから、一条院の歌を聞いてすぐに行成は、ああこの歌は亡き定子様にあてた歌なのだな、と理解したのでしょうね。

 

意外にも海外のお客さんが多くてびっくりしました

海外の方向けの食べログみたいなのがあるんでしょうかね・・・

Nikon Zf NIKKOR Z 14-30mm f/4 S

 

ともあれ、学生時代から近所にあったのに一度も来たことのなかった『喫茶チロル』

ようやく訪れることができて肩の荷が降りたようです(笑)

 

二条駅前交差点 昔住んでいた建物はまだ健在でした

iPhone15

 

まあ普通に読めば生きている彰子に宛てたものと取れますし、道長はそもそも一条帝と定子の関係を疎ましく思っていました。

また、新古今和歌集は200年後に編纂されていますから論外。

『栄花物語』の作者は赤染衛門ではないかという説が有力ですが、その赤染衛門も彰子のサロン付きの女房であり紫式部の同僚ですので、まさに道長派の一員であり。

 

ところがこれら書物の書き主のうち行成だけが実際にその場にいた人であり、同時に一条帝と定子の深い気持ちを知ることのできる立場にあったわけで。

 

以上の点から、個人的な意見としては、一条帝の辞世の歌は定子に宛てたものだと私は考えたいですね。『露』という言葉が大きいです。

 

ついでに言うと『栄花物語』では、一条院が辞世の歌を詠んだ際の彰子について、「何事も分別つきかねていらっしゃった時のことでそのままであったらしい」とある・・・。

つまり彰子は返歌を残していないわけで。これも地味に重要なポイント?

 

JR 『二条駅』 

昔の木造の『二条駅舎』が梅小路の鉄道博物館に残っているらしいので、また行ってみたいですね

 

市バスで千本通を北上 これは中立売通の『北野商店街』

 

学生時代に千本今出川の学習塾でバイトしてたことがあって、このあたりもよく歩いた記憶がありますね

iPhone15

 

たぶん彰子も、これは自分にあてた歌ではないのだろう・・・、と察した気がします。

でもこの彰子って方も、すごく優しくてその人間性というか素晴らしい人格の方なんですよね・・・。

 

定子の死後彰子は、その忘れ形見である敦康親王を引き取り、愛情をこめて育てたそうです。

一条帝は自分の後継たる東宮に、この敦康親王を立てたかったのですが、道長が彰子の実子である敦成の立坊即位を強く望んだため、諦めざるをえず・・・。

 

ですが、こういった父道長の、一条帝や敦康親王をないがしろにする行動に彰子は怒りをあらわにして抗議したという記録が残っています。

 

この千本今出川付近の千本通って、昔は商店街に屋根があったような気がするんですが・・・

 

とはいえこの千本今出川の交差点は昔の面影をそのまま残していますね

 

クタクタの私はここから市バスで上京区総合庁舎前を経てホテルに戻ります💦

最終日の夜は『高台院』のライトアップに出かけます

iPhone15

 

行成の日記『権記』によると、一条院は死後火葬されたんですがその帰り道で道長は、

 

「ああ、そういえば院は土葬を望んでおられたのだったな・・・。今、思い出した」

 

とか言ってたそうで。しらじらしいというか・・・😓

まあそれぐらい無慈悲な部分を持ち合わせてないと権力の頂点には立てないのでしょうね・・・。

 

 

最後に。

一条帝と定子の辞世のやりとりの真意は行成のおかげで後世に残りました。

 

それを読んで私たちはどれほど強い感銘を受けたか・・・。それだけでもいくらか報われている部分はあるような気もします。

 

極楽でなくてもそれに代わる来世の場所・・・、例えば天国のような・・・。

一条帝と定子様と彰子様はそのような心安らげる場所で三人仲良くお過ごしくだされば・・・、と願うばかりです。