【京都】 早朝の清水寺 その2 光る君への話も【2023 3月 桜】 | Sepia Wind deux

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さて、今日の写真も前回に続いて昨年3月の清水寺です。

 

天気が悪くてあいにくの曇天でしたが、今回も写真にいろいろ手を入れてます。

ノスタルジックな加工とモノクロ風ですけど、案外これも悪くないような気がしてまして。

 

清水寺のあとは八坂の塔、そのあと八坂神社まで歩いて祇園から二条城付近までバスで移動。

それから神泉苑、三条会商店街と廻ったんですが、以前にアップした曇天の神泉苑とはちょっと違う雰囲気の絵にもなったので、またいずれ順を追って紹介しようかと思っています。

 

 

 石段越しに見る阿弥陀堂と奥の院

OLYMPUS OM-D E-M1 MarkII  LAOWA 7.5mm F2 MFT

 

 

 で、今日は久しぶりに写真とは関係のない話を。

 

今年度の大河ドラマの『光る君へ』がはじまってますね。

私、第一話だけ見たんですが、配役を見ていろいろ納得したというか。

 

当初、紫式部が主人公と聞いて一体どういう風にストーリーを進めていくのか見当もつかなかったんですね。

 

 

 本堂東側から阿弥陀堂を見やって

 

 これは前回同様色温度を落として

 

 舞台から東側を見やって

OLYMPUS OM-D E-M1 MarkII  LAOWA 7.5mm F2 MFT

 

 

何に納得したかというと配役というか登場人物 ですね。

まあ紫式部と藤原道長がメインキャラという話でしたが、第一話を見ると道長の父親の兼家が中心人物な印象があって。

 

それで納得?。

藤原兼家って濃いキャラクターというか、すごく性格が悪い人wでいろいろエピソードありますからね。

 

 

 これもノスタルジック調

 

 舞台から見下ろして

 

 石段と桜

OLYMPUS OM-D E-M1 MarkII  LAOWA 7.5mm F2 MFT

 

 

 というか、あの時代って歴史的な事件とか戦いみたいなものはあまりなかったある意味平和な時代?庶民は生活苦しかったでしょうけど。

 

で、藤原氏による他氏排斥の代表的事件というと5つほどあるんですが、その最後の事件『安和の変』を首謀していたと言われる藤原実頼が、兼家の伯父に当たるわけで。

 

もう兼家の時代にはそこまで露骨で大きな事件はないんですよね。そういう時代背景?

その代わり兼家って陰険で性格がすごく悪いイメージのエピソードがけっこうあって。

 

 

 灯籠と桜と絵馬

 

 

 

 石段

OLYMPUS OM-D E-M1 MarkII  LAOWA 7.5mm F2 MFT

 

 

よく知られている話ですが平安貴族の婚姻の特徴というと、男が女性の家に通ういわゆる 『通い婚』と一夫多妻制?

 

で、兼家ですが、通い婚というかそんな感じで女性の家へ行く風情を見せて・・・。

女性の家の人間が、ああ兼家様がおいでになるのか準備しないと、とか思っていると、素通りして別な女の家に行く?

 

それでがっかりさせて楽しむみたいな性癖があったようで。

 

 

 正面左が奥の院

 

桜をからめて舞台側面

 

 桜を絡めて

OLYMPUS OM-D E-M1 MarkII  LAOWA 7.5mm F2 MFT

 

 

 なんでそんなプライベートな話がわかっているのかというと、それが『蜻蛉日記』。

 

『蜻蛉日記』の作者は藤原道綱の母。つまり兼家の奥さんのひとりですね。

というか『蜻蛉日記』はそんな感じの、夫である兼家に対する愚痴が多いという話。まあ私、全部は読んでいないんですが💦

 

ちなみに藤原道綱は兼家の次男。

作者はその道綱のお母さんですね(そのまんまやん・・・)

 

一方で道長は五男ですが正妻格の時姫腹の子としては三男なのでドラマでは三郎と呼ばれてるんですかね?

 

 

 雲に覆われた京の街と清水の舞台

 

 縦位置で

 

 これは少しノスタルジック調で

OLYMPUS OM-D E-M1 MarkII  LAOWA 7.5mm F2 MFT

 

 

そうそう道綱の母という呼び名ですが、これは本名がわかっていないので。

ドラマの主人公紫式部も本名はわかっていません。

というか当時の貴族は名前で呼ぶことはしない風習?女性はだいたい父親の官職を絡めて呼ぶことが多いようで。

 

これは名前というものには魂が宿っていて、みだりに名前を声に出してはいけない、という考え方?

当時はとにかく悪霊とかが跳梁跋扈してると信じられていたようですし。特に権力者は呪いの対象にされるのも怖れていましたから。

 

 

 子安の塔

 

 これはノーマルなレタッチ

 

 三重塔を遠くに

OLYMPUS OM-D E-M1 MarkII  LAOWA 7.5mm F2 MFT

 

 

 でも兼家とか道長とか男性は本名がわかっているわけで。

これは朝廷の公文書に名前が残っているからで。

 

ですから紫式部の本名はわかりませんが、娘の大弐三位は本名がわかってますね。

娘さんの本名は藤原賢子ということです。だから紫式部も本名は藤原◯子って名前だったんじゃないかと・・・。

 

というか奈良時代から平安時代の皇族とか上流貴族の女性って◯◯子という名前が多いですよね。

これは嵯峨天皇以降のことらしいんですが、平安時代後期になると皇族貴族女性の8、9割がこの『子』が付く名前だったという話。

 

 

 子安の塔付近から舞台を見て なんか平安時代の雰囲気ないですか?(笑)

 

 下に降りて

 

 下から舞台を見上げて

OLYMPUS OM-D E-M1 MarkII  LAOWA 7.5mm F2 MFT

 

 

 今の時代だと◯子って名前は平凡過ぎると思われそうですが、実は皇族貴族に使われていた高貴な名前なんですよね。

そういえば文徳天皇の后で清和天皇の母である藤原明子は、『ふじわらあきらけいこ』と読むそうで。カッコいいですね。

 

 

さて、話は戻って兼家の話。 

 

立ち寄ると見せかけて素通りして喜ぶというのも、女性の家とかならまだ大きな事件にはならないんでしょうけど・・・。

 

兼家ってお兄さん(次兄)の藤原兼通とすごく仲が悪かったらしく。

お兄さんの兼通が最晩年には藤氏長者で関白太政大臣、兼家は大納言でしたか。

 

その兄の兼通が危篤状態で余命いくばくもない、という状況になった時のこと。

そんなときに弟の兼家が、兼通の自宅前を通りかかったんですね。

 

それを聞いて兼通は、「やれやれ今まで仲が悪かったけど、さすがに最期は兄弟として見舞いに来てくれたんだな・・・」と、兼家を迎える準備をさせていると・・・。

 

 

 舞台を正面下から見上げて

 

 音羽の瀧

 

 モノクロで

OLYMPUS OM-D E-M1 MarkII  LAOWA 7.5mm F2 MFT

 

 

ところが兼家は例のごとく兄の家を素通り(笑)

ホント性格悪いよね・・・(´・ω・`)

 

これに激怒した兼通、最後の力を振り絞って参内。

最後の仕事として除目(人事)を行うのですが、関白職は従兄の藤原頼忠に譲り、逆に兼家から右大将・按察使の職を奪い、治部卿に格下げ(笑)

 

間もなくして兼通は亡くなったんですけど、 権力欲に取り憑かれた藤原氏の長者クラスの人たちってこんな感じの人ばっかりよね・・・。

 

ちなみに道長は、こういうクズみたいなエピソードは少ない気がします。

まあ五男で元々藤原長者のお鉢が回ってくる可能性低かったですから、本人もそんなにガツガツしてなかったんだと思います。

 

 

西門を石垣越しに見上げて

 

 これも石垣

 

 モノクロで西門と石垣

OLYMPUS OM-D E-M1 MarkII  LAOWA 7.5mm F2 MFT

 

 

 というわけで、『光る君へ』のお陰で、細かいところを再確認したくて久しぶりに本を読んでいます。

本と言っても、『大鏡』とか『紫式部日記』とか。もちろん現代語訳ですが。

 

で、実は今まで全く読んでなかった本について少し調べていたんですけど、すごく興味が湧いてきたものがひとつあり・・・。

 

それが『更級日記』。作者は菅原孝標女(すがわらの たかすえのむすめ)。

 

古典の随筆だと『枕草子』とか『徒然草』とか、日記はそれこそ『紫式部日記』とか『蜻蛉日記』とかありますけど、私、この『更級日記』はすごく心を動かされました。

 

特に父親との別れのあたり。

まだ部分的にしか読んでないんですけど、今まで↑に挙げた随筆や日記を読んでも感動したことなんて一度もないのに『更級日記』だけは違った・・・。

たぶん私が父親になったから余計に強く感じるものがあるんだと思いますが。

 

またいずれ『更級日記』についても記事を書いてみたいと思います。