主にテレビ業界などで使われている言葉に「見切れる」という表現があります。
最近ではスマートフォンで手軽に写真が撮れるようになったことで、「写真が見切れてしまった」などのように使われることがあります。
ところで、「見切れる」とは対象とするものが映っているのでしょうか?映っていないのでしょうか?
元の意味としては、「見切れる」とは「映っていてはいけないものが映り込んでしまった」となります。
たとえば「部外者が見切れてしまった」などと言うと、本来映り込むべきではなかった関係のない人が映ってしまっている、という意味です。
しかし、最近は「見切れる」を「映っているべきものが画面からはみ出して切れている」という意味で使われることが多いようです。
映っているべきものが映り切っていない、という意味ですから、本来とは逆の意味になっていることが分かります。
なぜ、このような逆転現象が起きてしまったのでしょうか。
おそらく「見切れる」に含まれる「切れる」という表現に原因があるのではないでしょうか。
写真が「切れる」と言うとき、写っている人物の体の一部などが入り切っていないことを指します。
途中までしか写っていないので「切れている」というわけです。
この「切れる」と「見切れる」は響きが似ているため、「見切れる」も同様に「途中で切れてしまった」という意味で使われるようになったのではないでしょうか。
ただ、そもそも「見切れる」という言葉自体が業界用語ですので、正式な日本語とは言えません。
「映り込んだ」「切れてしまった」と言ったほうが、誤解されることなく正確に伝わるでしょう。
このように、本来とは正反対の意味で使われるようになりつつある言葉は他にもあります。
「失笑」は「あきれて笑いさえも出ない」と捉える人が増えていますが、実際には「思わず笑い出してしまう」ことです。
「曲のさわり」と言うとイントロなど冒頭部分を指すことが増えていますが、本来は「一番の聞かせどころ」です。
元の意味とは正反対の意味で使う人が増えている言葉は、思わぬところで誤解や行き違いを生む原因になることがあります。
「失笑」は「思わず噴き出してしまった」、「曲のさわり」は「一番の聞かせどころ」などと言い換えたほうが、誤解を防ぐことができるでしょう。