皆さん こんにちは。 前回 夜行普通列車 山陰号に乗車して 早朝の京都駅に到着しました。 京都駅からは、4分の接続で 5時28分始発の普通922M米原行に乗り 米原乗り換えで 7時過ぎに大垣駅につきました。

普通223M美濃赤坂行。117系6両編成でした。
1979年 阪急6300系京阪3000系などに対抗すべく 京阪神地区新快速用としてデビューした 117系は 1982年名古屋地区でも 快速列車で走っていた153系を置き換えて デビューしていました。

心霊写真ではないと思います。 終点の美濃赤坂駅で車内から鳥居型駅名標を撮影。
ところで この時の乗り継ぎ旅は 青春18きっぷを使って 夜行3泊4日の行程でした。 その中で 核になった一つが この美濃赤坂支線でした。
1984年9月号時刻表から

当時の美濃赤坂支線は、朝3本 昼1本(土曜休日のみ運転)夜5本しかありませんでした。 なんと8時代の225Mを逃すと 平日は夕方まで列車がなく 乗り潰すには難関線区でした。 ホテルに泊まるとか 新幹線を利用することは論外でしたので その答えが 京都駅始発の列車から乗り継ぐという方法でした。 それに乗るには、夜行「山陰」号に乗ることとなり となると前日は 山陰地区にいなければいけなくて 結果として 逆算していくと 大阪6時始発の快速で西に向かい 姫路乗り換えで 赤穂線 伯備線 大社線を乗りつぶして 夜行「山陰」に乗るという旅程になりました。
大垣に戻って 次に乗車したのは こちら。

当時は 国鉄樽見線と呼ばれていました。 (現在は第三セクター樽見鉄道となっています)
その樽見線929Dに乗ります。 とその前に途中下車して駅前散策。
当時の大垣駅舎です。
929Dは 4両編成でしたが、ガラガラ 40分ほどで終点に。

現在は、中間駅の神海駅となっていますが、国鉄時代は、終点の美濃神海駅と呼ばれていました。
前の2両は、キハ20の前面にキハ28と同じような片側2扉の車体だった キハ26形で 以前は準急列車として運用されていた車両でした。
これも心霊写真ではありません。 後の2両は、当時最新型のキハ48系でした。40系列気動車の一つで 片運転台片開き2扉デッキ付きの車体でした。 これの両運転台がキハ40。両開きデッキなしが キハ47です。

キハ48の台車。寒冷地向けのキハ48には、空気バネ台車が使用されていました。
ところで 美濃神海駅のホームは、3両分ぐらいしかなく 列車の両端の扉は、完全にホームから外れていました。 ホームがないのに扉が開いてます。
帰りは、エアサスの効いたキハ48の方に乗って 大垣駅に戻りました。

次に乗ったのは 117系快速浜松行に乗車。 当時の名古屋地区の快速は日中大垣ー浜松(豊橋)間に1時間に1本の運転で その117系快速には、山と海を背景にした専用のヘッドマークがついていました。
117系快速の終点浜松駅で 普通460Mに乗り継ぎ 掛川駅で降りました。 そこからは 現在の第三セクター天龍浜名湖鉄道になった 国鉄二俣線に乗車しました。
二俣線は、浜名湖の北側を 東海道本線の掛川駅と新所原駅を結ぶ路線です。
二俣線に乗って おそらく 佐久米駅付近。


浜名湖の湖岸すれすれに走り 目の前を東名高速道路が通っていました。

2時間ほどかかって新所原駅に到着しました。 奥が乗ってきた キハ20系。

ちょうど通過した EF65 0番代牽引のコンテナ列車。
新所原駅からは 今夜の寝床を確保するために大垣駅に戻ります。
名古屋地区の夕方は、普通列車しかなく 新所原16時42分発の普通大垣行に乗車しました。

途中の豊橋駅付近の機関区に停車中の119系近郊型電車を車内から撮影。 国鉄が飯田線の旧型国電置き換えように製造した形式で 飯田線でしか見られませんでした。
新所原から 2時間10分 ラッシュ時間帯の窮屈な113系に揺られて 疲れ果てた頃に19時前に大垣駅に到着しました。 多分 駅近で食事をして 銭湯があったかは覚えがないのですが、待合室で少し休憩してから 発車の30分前ぐらいにホームに向かい340Mを待ちました。
御覧頂きましてありがとうございました。