昨日「星合世十三團」を歌舞伎座で観たら、
やはり大阪松竹座に行きたくなって、
急遽、予定変更。家の用事は別日に。


富士山は雲をかぶっていました。



浜名湖は快晴。
もう少し。
菊之助さんの「藤娘」に間に合うかな。
今井さんのおうどん食べたーい。

思いつき弾丸遠征も久しぶり。ウインク


よく考えてみると、音楽を生で聴くのは歌舞伎の邦楽と、ガジェヴのピアノだけになっている片寄った私です。まずいつものように瞑想タイム置くスタイルは変わらない。相変わらず女性ファンが多いです。(笑)


1、コリリアーノ

「オスティナートによる幻想曲」

今回のコンサートはベートーヴェンの作品が多かったです。この作品もベートーヴェン交響曲第七番第2楽章に基づく作品。反復が現代的なのだけれど、鉱石が旋律やリズムの反復の中から瞬き出すかのような最後には滑らかで豊かな水面のような感じで終わったような気がします。

2、ベートーヴェン「交響曲第7番から第2楽章アレグレット」のリスト編

最初のコリリアーノに続けて演奏されたのが印象的。リストがベートーヴェンの9つの交響曲を全てピアノ曲に編曲していた。ガジゥヴ的にはこの曲までを一つのまとまりとして演奏したかったのでしょうか。


3、リスト「詩的で宗教的な調べ」S179から葬送曲

結構重々しい曲でした。プログラムの解説によれば、1848年のハンガリー革命で命を落とした友人と同じ年に亡くなったショパンへの弔いの意が込められているそう。

4、スクリャービン「練習曲」から7曲

43才で亡くなったロシア人のスクリャーピンは20代から40代にかけて9年に1度のペースで練習曲を作曲したのだそう。ショパン的なものが少しだけ感じられる。リストとこのスクリャーピンも続けて演奏されて、小さな曲がポツポツと続く。


休憩


後半は

5、ショパン「24の前奏曲」から6作品

ガジゥヴらしい色彩が感じられました。


6、スクリャービン「ピアノソナタ第9番黒ミサ」

スクリャービンが象徴主義の芸術家と交流する中で神秘主義に傾倒して行く時期の作品。黒ミサの題名通り、謎に満ちた旋律なのだけれど、ガジゥヴが弾くと残響があり、かつ力強いタッチで豊かな広がりを感じさせるような気がします。


7、ベートーヴェン「エロイカの主題による変奏曲とフーガ」とてもパワフルな感じがしました。ピアノ1台でオーケストラをやっているような。

ベートーヴェンに始まり、ベートーヴェンに終わる。個人の勝手な感じでは色彩的にはダークだけれど、そこに豊かな色彩が塗り込められていて美しい…。


アンコールは全てショパン

4つのマズルカ 作品6-1

マズルカ63-3

鳴り止まない拍手に

ポロネーズ第6番「英雄」はちょっとびっくり。

結構、ざっくりとパワフルだったので。

マズルカ68-2


日本人はショパンないとダメって思われてるのでしょうか。内省的なプログラムであっても、残響の中に確かに刻まれるものが伝わって来るガジゥヴ。やはりいいです。今回は、スタンウェイのピアノでした。





このコンサートの翌々日、ガジェヴにそっくりな外国人がリュックに短パンで歩いてる姿を新宿駅のコンコースで見かけましたとさ。(笑)ホントそっくりだった❗





自分を赤姫と思って岡田のもとに匿われている柊木葵=五代目柊木魏謳や他の俳優が劇中で演じたり、引用されている赤姫など歌舞伎作品は…

1「中将姫古跡の松」雪責めの場(並木宗輔作)、

 中将姫(葵=加納)

2「本朝廿四孝」十種香、八重垣姫(葵=加納)

3「桜姫東文章」新清水の場、桜姫

4「新薄雪物語」薄雪姫(横井文子=永澤洋)

5「菅原伝授手習鑑」道明寺の場、苅屋姫(葵=加納)

6 長唄「黒髪」(葵=加納、桃田=押田健史)

7「大商蛭子島」幸左衛門 奥座敷の場、辰姫

8「鳴神」雲の絶間姫(川野母=山下禎啓)

9「本朝廿四孝」奥庭の場、白狐(川野=武市佳久)

10「祇園祭礼信仰記」雪姫(川野=武市佳久)

11「荒御霊新田神徳」矢口村神前の場、初花姫

12「隅田川続俤」三囲土手の場、野分姫

13「桜姫東文章」山の宿権助内の場、風鈴お姫

14「隅田川花御所染」都鳥名所渡の場、清玄尼

15「妹背山婦女庭訓」道行恋苧環、

  お三輪(染香=山下禎啓)と橘姫(葵=加納)

16 長唄「お月様」(葵=加納)

17「鎌倉三代記」絹川閑居の場、時姫

18「妹背山婦女庭訓」道行恋苧環、赤姫たちで手踊り

19「鳴神」雲の絶間姫(葵=加納)、

       鳴神上人(川野・武市)

20「摂州合邦ヶ辻」浅香姫(葵=加納)、玉手御前(女=           川野母)と俊徳丸(川野=武市)

21「本朝廿四孝」奥庭の場、八重垣姫(葵=加納)

台本を買ったので、拾ってみたらこんなに沢山ありました。歌舞伎で観たことがなかったのは、

1「中将姫古跡の松」、中将姫。1957年と1972年に6代目歌右衛門、1985年、1994年、1999年と当代福助が演じていました。

11「荒御霊新田神徳」は、福内鬼外(平賀源内)が江戸時代に結城座(江戸糸あやつり人形芝居)に書き下ろし、2023年3月に加納さんの演出で244年ぶりに復活上演したもの。

歌舞伎を中心に様々なジャンルを歌舞伎の様式を用いながら独自の芝居にしてきた花組芝居ならではの作品。「女形」としての加納幸和の魅力も満喫できました。

作家二人の愛憎と母息子の愛憎に歌舞伎の引用が絡み、そこに女形という存在と現実の性別も絡みとても面白かったです。恋が嫉妬がとんでもないエネルギーになって、憎しみを何かを生んでいったり。どんでん返しも効いていたし、これは加納幸和や花組芝居をよく分かっている秋之桜子さんならではですね。2.26事件の翌年昭和12年(1937年)、戦争へと向かう時代背景の中で、最後には小説(表現)を書く自由が戦争により奪われて行く状況も描かれて、笑いだけでなく深みのあるお芝居になっていたと思いました。





2024年6月21日(金)~30日(日)

シアタートラム(東京)




還暦の時に、加納幸和の赤姫を芯にした企画が上がったけれど、コロナ禍で見送りになりそろそろ体力的にも辛くなってくる中で早くやろうということらしい。女形というのは実は肉体的にキツいが、芝居が円熟に向かうのはそれと反比例するのかも。6歌右衛門しかり、3雀右衛門しかり。今の加納幸和の実感と主人公の実感も重なります。


赤姫他女形陣が白塗りなので男優たちも白塗りにタキシードでしたが、バランスは取れていた気がします。

久しぶりにテレビドラマを見てしまいました。

偶然見た第5話、リキが故郷北海道に帰る回に引き込まれ。「代理出産」をこんな風に描くなんて凄いと思ったら、原作は桐野夏生で納得。


石橋静河の迷いながらもクールでいざとなったら、きっちりと主張する姿は、代理母というある意味無謀な選択をする大石理紀(リキ)にぴったりとハマっていました。


自分の才能を持つ遺伝子を遺したい夫のエゴ、夫の子を産めない妻のつらさ、東京に出てきたものの厳しい格差に行き詰まり代理母となる女。それぞれの思惑、エゴ、苦しみがぶつかり合います。その後半の重苦しさは、桐野さんらしい雰囲気で、脚本の長田さんの力。


最後は双子の息子は残し、娘を連れてリキが姿を消すというところでドラマ(原作も)は終わります。男女の双子で娘を連れて行くという所に前向きな意味があるのでしょうか。リキは、女に生まれるのって悪くないから、一緒に頑張ろう!と娘に語りかけていました。つわり、帝王切開の出産、産後ウツにあんなに苦しんだのに、娘を抱っこ紐で抱えたリキの顔は晴れやか。


その後、双子じゃなかったらどうなるの?親権は?生活できる?基が追ってくる?或いは子どもたちの将来にとってこれは幸せ?

疑問は尽きないけれど、桐野作品には珍しく(?)晴れやかな終わり方、代理母を安易に選択したのは問題だけれど、産む性である女性に対してのエールなのかなと思えました。








桐野夏生さんのインタビューはこちら






だいぶ記憶が薄れていますが感想を。
(もちろんネタばれです。)

まず最初の森の木々を下から見上げるように写すシーン、ブルーグレイのトーンの木々と空をひたすら進んで行く美しさ、地面には向かわないのかしらと思うと少しずつ下方に向かって行き人物が現れて。このシーンが作品のテーマを象徴している感じがしました。

主人公の巧(大美賀均)と娘の花(西川玲)は、カラ松林の小屋に住んでいます。巧は町の便利屋をして暮らしているらしいけれど、薪割りや水汲み(知り合いの蕎麦屋さんのために汲んでいる)に没頭すると娘を迎えに行くのも忘れてしまったりします。彼の妻、花のお母さんは、ピアニストだったのか家にはピアノがあるけれど、どうやら彼女は亡くなっているような気がしました。その妻の存在も巧の今に何らかの影響があるのでしょうか、巧は静かで謎の人なのです。

この町の人々と共に二人は穏やかに暮らし、森の自然の恩恵を受けながら、見つめながら生活していて、学校からの帰り道では、様々な自然の様子を父は語り聞かせ、子鹿の死骸を見つけても、静かに穏やかにその「死」を語り、「鹿は子どもを連れている時以外は人は襲わないんだ」とも語り、これも自然の一部としてきちんと認識しているような感じがします。(このシーンがラストの伏線となる)娘の花も森が遊び場で夢中になると父にはぐれそうになる自然児、娘を探す父が、岩かげを抜けると娘と落ち合い、また何事もなかったように歩き始めるシーンが印象的でした。

この静かな町に、東京の芸能プロダクションがグランピング場を建設しようとしていることが分かり、住民の反対運動が持ち上がります。住民説明会に東京からやって来た高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)は、住民の強い反対にたじたじとなります。建設予定地には水源があり町の水質汚染や枯渇の可能性があることや鹿の通り道となっていることなどが語られます。

強硬にくってかかる友人もいるなかで、巧は自分の祖先もこの地に開拓者として入って来たことを語り、その意味ではグランピング場業者と同じだが、この場所に受け入れてもらったから今がある…というような話をします。これを聞いたことで高橋と黛は、上司の巧をグランピング場の管理人にすることで話をまとめろという命令を受けながらも、巧と町の人々の生活に寄り添ってみようとするのです。町に残り薪割りを巧に習う高橋、水汲みを手伝う黛。

そんな時、花が学校帰りに行方不明になります。

巧も高橋も町の人々も必死で花を探すのですが、日は暮れかかります…。

好奇心からどんどん森の奥へ分け入った花は、鹿の親子に遭遇するのです。その場に背後からやって来た巧と高橋が追いつきます。
高橋が花ちゃんと叫び助けようとするのを制止する巧、花は静かに鹿の親子に近づくのですが、親鹿は子鹿を守るために花に向かって来て…。
次のシーンでは花は地面に仰向けに横たわっています。助けようと向かって行くのではなく、見守った巧。

娘を背負って森の中を駆ける巧を、暗くなった森の木々が覆います。また真っ暗な木々が続くシーンの中で巧の荒い息づかいだけが響き映画は終わります。
濱口監督独特の台詞術が淡々としていて、巧という人の人物像を深く大きなものにしている気がしました。
本読みを重ねて俳優たちのコトバが自然な感じになることと、意外な結末。

一言で言ってしまうと自然の前に全てのものは平等、人間のものさしでは測れないものの大切さなのでしょうか。

音楽は「ドライブマイカー」の石橋英子さんだったのですが、今となってはあまり記憶がなく、これは私が音楽に疎いせいなのだと思います。