だいぶ記憶が薄れていますが感想を。
(もちろんネタばれです。)

まず最初の森の木々を下から見上げるように写すシーン、ブルーグレイのトーンの木々と空をひたすら進んで行く美しさ、地面には向かわないのかしらと思うと少しずつ下方に向かって行き人物が現れて。このシーンが作品のテーマを象徴している感じがしました。

主人公の巧(大美賀均)と娘の花(西川玲)は、カラ松林の小屋に住んでいます。巧は町の便利屋をして暮らしているらしいけれど、薪割りや水汲み(知り合いの蕎麦屋さんのために汲んでいる)に没頭すると娘を迎えに行くのも忘れてしまったりします。彼の妻、花のお母さんは、ピアニストだったのか家にはピアノがあるけれど、どうやら彼女は亡くなっているような気がしました。その妻の存在も巧の今に何らかの影響があるのでしょうか、巧は静かで謎の人なのです。

この町の人々と共に二人は穏やかに暮らし、森の自然の恩恵を受けながら、見つめながら生活していて、学校からの帰り道では、様々な自然の様子を父は語り聞かせ、子鹿の死骸を見つけても、静かに穏やかにその「死」を語り、「鹿は子どもを連れている時以外は人は襲わないんだ」とも語り、これも自然の一部としてきちんと認識しているような感じがします。(このシーンがラストの伏線となる)娘の花も森が遊び場で夢中になると父にはぐれそうになる自然児、娘を探す父が、岩かげを抜けると娘と落ち合い、また何事もなかったように歩き始めるシーンが印象的でした。

この静かな町に、東京の芸能プロダクションがグランピング場を建設しようとしていることが分かり、住民の反対運動が持ち上がります。住民説明会に東京からやって来た高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)は、住民の強い反対にたじたじとなります。建設予定地には水源があり町の水質汚染や枯渇の可能性があることや鹿の通り道となっていることなどが語られます。

強硬にくってかかる友人もいるなかで、巧は自分の祖先もこの地に開拓者として入って来たことを語り、その意味ではグランピング場業者と同じだが、この場所に受け入れてもらったから今がある…というような話をします。これを聞いたことで高橋と黛は、上司の巧をグランピング場の管理人にすることで話をまとめろという命令を受けながらも、巧と町の人々の生活に寄り添ってみようとするのです。町に残り薪割りを巧に習う高橋、水汲みを手伝う黛。

そんな時、花が学校帰りに行方不明になります。

巧も高橋も町の人々も必死で花を探すのですが、日は暮れかかります…。

好奇心からどんどん森の奥へ分け入った花は、鹿の親子に遭遇するのです。その場に背後からやって来た巧と高橋が追いつきます。
高橋が花ちゃんと叫び助けようとするのを制止する巧、花は静かに鹿の親子に近づくのですが、親鹿は子鹿を守るために花に向かって来て…。
次のシーンでは花は地面に仰向けに横たわっています。助けようと向かって行くのではなく、見守った巧。

娘を背負って森の中を駆ける巧を、暗くなった森の木々が覆います。また真っ暗な木々が続くシーンの中で巧の荒い息づかいだけが響き映画は終わります。
濱口監督独特の台詞術が淡々としていて、巧という人の人物像を深く大きなものにしている気がしました。
本読みを重ねて俳優たちのコトバが自然な感じになることと、意外な結末。

一言で言ってしまうと自然の前に全てのものは平等、人間のものさしでは測れないものの大切さなのでしょうか。

音楽は「ドライブマイカー」の石橋英子さんだったのですが、今となってはあまり記憶がなく、これは私が音楽に疎いせいなのだと思います。