色即是空 空即是色

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 昨日の東京はずっと曇り空で、外はめちゃくちゃ寒いです。

 

 一年の中で一番寒いのが、この2月の後半から3月前半のこの時期……

 朝晩は確実に日が長くなっているのに、実際の気候はそれに追いついていなくて、極寒の寒さが続いています。

 

 とはいえ、春がもうそこまで来ているのは、どうやら間違いなさそうです。

 

 昨日のブログを書いている途中で、ふっと「色即是空しきそくぜくう 空即是色くうそくぜしき」というお経の言葉が浮かんできて、その言葉をブログの中に盛り込んだら、ただでさえ脈絡のない話が、ますます訳の分からない話になってしまいましたが、この言葉は「般若心経はんにゃしんぎょう」というお経に出てくる言葉です。

 

 この般若心経は、密教系や禅宗系の仏教で、幅広く使われているメジャーな経典です。

 

 思い起こせば、僕の亡父が毎月13日になると、この般若心経を読経して、僕も子供の頃、父親のひざの上でよく分からないまま唱えている内に、比較的短いお経だったこともあり、知らず知らずの内に覚えてしまっていました。

 

 今でも、岐阜の家の仏壇には、般若心経の経本が置いてあります。

 

 ところが、うちの浅野家の宗派というのは、西本願寺系の浄土真宗で、法事などで住職の方が家に来た時に、般若心経の経本が仏壇に置いてあるのを見ると、何となく機嫌が悪くなるのですね(笑)

 

 浄土真宗においては、般若心経というお経は唱える必要がないもの…… という見解なのです。

 

 そこで、法事の時になると、住職が来る前にうちの兄が先回りして、仏壇に置いてある般若心経の経本を隠してしまうという……

 

 そんなこんなで般若心経は、僕が唯一唱えることができるお経はなのですが、この前、浅草の待乳山聖天まつちやましょうでんの節分祭に行った時には、これを覚えていたことが、本当に役に立ちました(^^)

(2025/2/3ブログ「待乳山聖天の豆まき」参照)

 

 ところで「色即是空 空即是色」という言葉を分かりやすく訳すのは、なかなかに難儀だったりします。

 

 色とは「色欲」とか「好色」の色ではなくて(当たり前ですが……)目に見えるもの、認識できるものであるこの「物質世界そのもの」を表します。

 

 空とは、こちらは訳すのが非常に難しいのですが、「物質世界を超越した所にある、全ての帰着点と開始点」でもあり、とりあえずここでは「実体を持たないもの」とでも、訳しておきましょう。

 空の概念というのは、いろいろな例えにあてはめられて、説明されることが多いです。

 

 単純に「色即是空 空即是色」という言葉を訳すとしたら、「この目に見える物質的な世界(色)というのは、すなわち、これは実体を持たないもの(空)であり、実体を持たないもの(空)こそがすなわち、これがこの物質的な世界なのだ」ということになるでしょうか……

 

 我々の視覚で感じるこの現実世界において、我々の目の前には、物という物であふれかえっていて、常にその障害物を避けながらでないと、歩いて前に進めません。

 

 でも、物理学において、原子というものを解析してみると、原子一つを東京ドームの大きさだと仮定した場合、その中心に存在する陽子と中性子で構成された「原子核」は、およそピンポン玉程度の大きさでしかないそうです。

 

 そのピンポン玉よりも外の東京ドームの空間は、電子という素粒子が飛び交っているだけの、いわば空っぽの空間です。

 

 物理学の世界には「非局在性理論」というのがあって、これは、物質を素粒子の超ミクロの世界で見た場合、全ては波動によって成立していて、最初から実在化しているものなどは何もない…… という考え方で、人間が認識した物だけが、そこに存在するという考え方です。

(2023/11/26ブログ「認識したものだけが存在する」参照)

 

 空という言葉を「空っぽ」とか「何もない」と訳してしまうと、色即是空 空即是色は「どうせ、この物質世界は空っぽですよ」みたいな虚しい意味の言葉になってしまうのですが、空を「この世界の存在の本来の姿」と訳してみれば「我々が見ている世界は、本来の姿ではなく幻想ですよ」と訳すことができます。

 

 僕は、この世界というものは、その人その人によって、見えているものがかなり違う幻想なのではないかと思うのですよ。

 

 例え、目の前に存在しているものでも、その人が認識しなければ、意識がそれを捉えることもできず、なかったことになってしまいます。

 

 泰山流四柱推命の考え方では、命式の五行バランスのことを「自分の心の目に掛かった、ゆがみのあるレンズ」というように捉えるのですが、まさに言い得て妙のように思います。

 

 その歪みのあるレンズによる「幻想」を打ち破ったのなら、人の可能性というのは限りなく広がって、どれだけでも強力な運をたぐり寄せることができるのではないかと、思うのですね。

 

 四柱推命の究極の目的というのは、それぞれが持っている「命式」という幻想を打ち破ることなのかも知れません。

 

 色即是空 空即是色 受想行識じゅそうぎょうしき 亦復如是やくぶにょぜ 舎利子しゃーりーし

 

 この目に見える物質的な世界は、実体を持たないし、実体を持たないものこそが、この物質的な世界なのだ。

 

 感じたもの(受)も、その概念(想)も、その行い(行)や認識(識)すらも、かくのごとし(亦復如是)なのだ、舎利子(お釈迦様の十大弟子の智慧第一である舎利弗しゃりほつの名)のこと)よ。

 

 考えて見れば、この体だって、本来この地球上にあった物質が集まって構成されているだけであって、やがてその時が来れば、消えていくのですね。

 

 そして、我々が向かうべき場所は、すでに確実に示されているような気がしています。

 

 この世的に「こうするべきだ」などと、騒がしくあおり立ててくるようなものは偽物で、それぞれの心が感じる先の方向性に、ただ向かっていけば良いと思うんです。

(2024/9/6ブログ「招待状はたった一つの光から」参照)

 

 自分が心に感じる波動を信じて、僕もみんなと一緒に、そこに進んでいこうと思います。